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1話ではユウ・メルク・トトの旅立ちが描かれた。非力で怖がりなユウが誰かを助けたり、助けられたりするシーンが多かった。

1.モンスターが怖くて店に入れないユウのため、メルクがモンスターにどいてくれるよう頼んだ
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2.地面に落ちそうになったメルクをユウがキャッチした
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常に浮いて移動しているメルクが落下の危機ってよくわからない。
気が抜けていたとかそういうことだろうか。
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「あんまり一人で突っ込んでいくなよ。瓶が割れたらどうなるかもわからないのに」

3.トトがエニグマの攻撃からユウを庇った
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「メルク、大丈夫か?」
ユウはトトが自分を庇ったことにまだ気づいていない。傷ついたトトをなめるカットでユウがメルクの心配だけをしているのは、ユウの思考の偏りを強く印象づける。
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「モチモチさんがユウさんを庇ってくれたのですよ」
「まさか…」
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モンスターへの恐怖からか、モンスターであるトトが自分を助けてくれたことを信じられない。
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トトはさらに、エニグマによって崖際に追い詰められたユウを守るような動きを見せる。
あとでわかることだが、ここでは「人を襲う」というモンスターの本能に突き動かされるエニグマを止めているシーンでもある。

4.崖から落ちそうになったトトをユウが助けたScreenshot from 2018-10-17 20-41-09
モンスターを恐れ、信じられなかったユウだが、これまでトトの行動を見て今度はトトを助けた。

5.メルクがユウとトトを狙うエニグマの攻撃を妨害した
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6.ユウが癒術によってエニグマを癒した
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まだ世界観がよくわからないが、とりあえずこれは本能的衝動からエニグマを解放した(=助けた)ということでいいのだろうか。
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「成り行きだとしても、お前さんがひとつの争いを未然に防いだことは確かさ。癒術士がいなけりゃモンスターとは戦うしか道がねえんだからな」
そんな彼が経営する店には、モンスター専用の出入り口がある。Screenshot from 2018-10-17 21-03-58
「ここは良い村だ。辺境ながらモンスターと人間がうまく共存できている。でもな、昔のモンスターは人間を襲う存在でしかなかったんだ。癒術士が現れるまではな」

まとめ

 Aパートではユウとメルクがお互いを助けるシーンがあり、2人が支え合っていることが表現される。Bパートでは善良なモンスターであるトトの献身により、ユウの素朴な助け合いの心がモンスターにまで広がる過程が描かれた。癒術を使えたから旅に出るのではなく、占いで適当に旅に出ようと決めて街に行ったらいろいろあって癒術を使ったというのは運命的で面白い。
しかし、本能的衝動を消されることはモンスターにとって幸せなことなのだろうか。「言葉通じない」とユウが言っているので確認する方法はないのだろう。人間に都合の良い行動を取るように洗脳することを「癒やす」と表現しているのは気になる。シリアスな作品であればそこを掘り下げ、「癒やされていないモンスターは人間を襲う習性がある」というこの世界のルールと対峙することになるだろう。そうでないのならモンスターのこの習性は、誰にも悪意がない優しい世界にトラブルを巻き起こすための便利な設定として使われるのだろう。

· 5 min read

※本記事内の画像・動画は『キャプテン翼』OPより研究のために引用したものであり、それらの権利は高橋陽一/集英社・2018キャプテン翼製作委員会に帰属します。

流背とは帯状あるいは放射状のデザインによるアニメの背景である。具体的な空間を描かずにスピード感を表現するためにテレビアニメ、特にバンクカットなどでよく用いられる。

『ポケットモンスター』1話
syodai

いかにもアニメらしい演出なのだが、流背が使われると現実感が損なわれてチープな印象になってしまうことも多い。僕はあまり好きではない。しかし『キャプテン翼(2018)』のOPでは流背が複雑かつ効果的に使われていて面白かったので紹介する。絵コンテ・演出はソエジマヤスフミ。なおこのOPに関しては以前も書いている。

ブログアップ用 pic.twitter.com/fCVyk3qAUG

— 栄西・the・博愛僧侶 (@min_nan_a_si) October 2, 2018

このカットの原画は小澤和則。この書きぶりだと長大な1カットという扱いなのだろうか。

booruに翼の自分のカットあったけど1カットの最初と最後だけになってておいおいってなるw

— オザ_カズ (@oza__kazu) April 2, 2018

翼のオーバーヘッドシュートがシュートと平行な流背の上に描かれるのだが、このシュートが流背を切り裂いてカットが切り替わる。
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そこから金田エフェクトを思わせるような単色の帯によって画面が区切られながら、様々な方向の流背をバックに次々とキャラクターが紹介されていく。
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最後は翼のシュートに戻ってくる。キャラクターを仕切っていた帯はシュートと垂直な直線に変化する。
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ここでキャラ紹介の前後のシュートの絵を比べてみたい。
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[Screenshot from 2018-10-02 23-47-45

](http://livedoor.blogimg.jp/min_nan_a_si/imgs/6/6/6624f670.png "Screenshot from 2018-10-02 23-47-45")1枚目では流背がシュートと平行だが、2枚目ではシュートと垂直な線が描かれている。
ここからは無理な深読みになるが、シュートと平行な流背からライバルたちが登場し、そのライバルたちが今度はシュートに垂直な線に変化する。そしてボールはそれらをすべて飛び越えてゴールする。
これは翼とライバルたちの関係を表現しているのではないだろうか。翼もライバルたちもサッカーが好きなサッカー少年であり、同じ方向を向いている。途中で流背の方向が変わっていくのはそれぞれのライバルが独自のサッカー観を持っているから。そして翼のシュートは最後はすべてのライバルたちを超えてゴールする。
翼が志を同じくするたくさんのライバルたちと競い合いながら、最後には勝利するということを視覚的に表現したのがこのカットなのだと思う。

最後の画像、よく見ると「CAPTAIN TSUBASA」という文字列で埋め尽くされていてちょっと怖い。ただ、このOPは全体的に翼を応援する内容になっているのでそういうものだろう。

· 10 min read

原作20巻分を劇場の尺にできるんだろうかと思ったが、できなかった。尺に苦労していたことは本人の口からも語られている。

脚本の吉田(玲子)さんに「この内容で90分に収まりますか?」と聞いたら「難しいと思います」と言われ、これは覚悟してかからなくてはいけないなと思いました(笑)。

映画「若おかみは小学生!」高坂希太郎監督「小学生の可愛らしさを意識的に表現」

脚本がまずい

意味がわからない。わからないものをなぜわからないのか説明するのは難しい。個々のエピソードも説明不足で雰囲気だけ解決して終わるみたいなのが多い。あかねが急に元気になった理由も美陽が鯉のぼりを飛ばした(物語上の)意味もわからない。おっこが神楽をやることになったいきさつも描かれてないし、真月の耳を触る仕草の意味も説明されていない。それでいてグローリーとの買い物でのコスチュームチェンジは挿入歌まで入れてノリノリでやられるのでその時点で「あー子供向けアニメなんだなあ」と半ば諦めた。

部分の問題点は挙げればきりがないが、全体の流れについて考えてみる。

春の屋旅館には3組の客が現れる。

  1. 神田親子
  2. グローリー・水領
  3. 木瀬家

中盤までおっこは幽霊たちと楽しく若おかみをしているのだが、時折両親の回想が挿入される。そこでおっこがまだ両親の死を認めていないことが示される。またおっこは中盤から徐々にウリ坊たちを感じ取れなくなるが、その理由は説明されない。ただ鈴鬼が「ウリ坊と美陽が成仏する日が決まった」と言うだけだ。特に外的な理由が与えられず物語の進行に従って消えるというのなら、ウリ坊や美陽は全ておっこが作り出したイマジナリーフレンドなのか?これは無敵の解釈なのであまり使いたくないんだが…

終盤、おっこの両親の死の原因となった木瀬文太が来訪する。おっこは事実を知り、幸せそうな木瀬家を目の当たりにして自分の両親がもういないことを認識して、泣きながら旅館を飛び出る。そこにグローリーが現れ、おっこを慰める。するといきなりおっこの心が復活して「自分はもう死んだ両親の残した子ではなく、春の屋の若おかみだ」と宣言する。ここの意味が全然わからない。そしてここの意味がわからないと映画全体もまったく意味不明になってしまう。

おっこは両親の死を認めない、ボタンを掛け違えた状態で中盤まで若おかみを努めていた。それが解決されるときはそれまでの全ての出来事について総括しなおし、それらの見え方がガラリと変わるような仕掛けがあると思っていたのだが、実際は上記のようになんだかよくわからないうちに解決したことになっていたのでこれまでの適当なエピソードの蓄積はなんだったのかと思った。

そもそも12歳の少女がいきなり家族を奪われて新しい環境に放り込まれたのに(作者が奪って放り込んだのに)、そこになんとか適応したのをめでたい成長のように描くのもどうかと思うが、こればっかりはもう高坂監督がそう思っているので仕方ない。むしろ「両親をなくした少女の成長物語ならそこを焦点にするしかない」という彼なりの誠実さなのかもしれない。

「環境によって人は形成されるということ」

劇場パンフレット

この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。

キャスト・スタッフコメント

最後はウリ坊と美陽がおっこと真月と一緒に神楽を踊りながら消えていく。ずっといっしょにいた特別な存在が消えていくというお決まりのシーンなのでなんとなくいい感じに見えて、そのまま終わるので意外にも視聴後感は良い。巷の高評価はこの影響なのか、それとも穴だらけの中盤までの各エピソードにも全部満足しているのか気になる。とは言っても、これは各エピソードが丁寧に原作に忠実に描かれたテレビシリーズを見てしまっているがゆえの物足りなさなのかもしれない。

技術

作画はすごい。特におばあちゃんの回想は圧倒的に上手い。背景も高密度で色合いがよくキャラと合っていた。音楽はダメ。メインテーマに華がないし、楽器の使い方がダサくて映像に合っていなかった。1エピソード1ダサミュージックという感じで、音楽で積極的に流れをぶった切っていた感すらある。声優も皆上手かったが、特に木瀬文太役の山寺宏一は複雑な心情を見事に演じていた。美陽の声はテレビの日高里菜から遠藤璃菜に変更されていて、これはよくなかった。素人子役ということでおっこ役の小林星蘭と被っていた。

その他

  • おっこが若おかみになることを決める流れはテレビではかなり嫌な感じだった(おっこの意志を無視していた)のでどうなるかと思ったが、劇場版ではウリ坊の懇願があったのでおっこの心が動かされたことに多少の納得はできた
  • 僕も旅館に行けば若おかみとデートできますか?
  • ウリ坊ふんどし確認
  • 鳥居くん(CV小林由美子)は冒頭から出ているのにウリケンが出てなくて泣いた

· 8 min read

3本の短編。OPのポノック♪ポノック♪が面白かったのと、3本目の『透明人間』が凄まじい名作だった。
セリフが多い作品ではないので全てを受け取れたとは思っていないし、自分の流した涙の理由も30%も言語化できていないと思う。それでも、だからこそ、この映画は見るべきだと言いたい。  『透明人間』が圧巻だった。

 透明人間は単に体が透明というギミックではなくて、誰からも見てもらえない、(社会から)浮いている人間の暗喩。社会で見ないふりをされている人間という意味で、様々なマイノリティが該当するだろう。障碍者、セクシャルマイノリティ、エイズなど具体例はいくらでも思いつく。消火器は体が浮かないための重りとして使われていたが、社会に溶け込んで生きることが重荷になることの表現だ。
彼は疎外され、それでも生きるために様々な苦労をしている(浮いてしまう体をなんとか地面に戻すシークエンス)。最後に斜面を転がり落ちる乳母車を見つけ、命がけの飛行の末に赤ちゃんを救ってみせる。泣いてしまう赤ちゃんに対して男はいないいないばあをする。赤ちゃんには男の顔が見えていて、それに応えて笑顔になったところで終了。ラストシーンで泣いてしまった。
赤ちゃんに男の顔が見えていたこと以上に、赤ちゃんに自分の顔が見えていると信じて(あるいは見えていないかもという疑念を忘れて)赤ちゃんにいないいないばあをする男に、猛烈に心を動かされた。この物語を真っ当に、社会的に「正しく」終わらせるならば、「赤ちゃんを救ってはじめて男は人に見てもらえる」という終わらせ方にはしない。ディズニーなら「透明だろうとなんだろうとみんな違いを認めあって生きていこう」となるはずだ。そういう意味で本作は社会的な苦難を提示ししつつ社会的な解決は提示していない。「死なないでほしい」「笑ってほしい」という個人と個人の関係によってこの作品が終わることは、上からの社会制度ではなく人間のプリミティブな感情、言うなれば「愛」こそが大事なんだと、そういう力強いメッセージだと私は受け取った。
もちろんアニメ映画なのでテーマやギミックが優れていればいいというものではない。背景が、作画が、そして中田ヤスタカの未来的でドライな音楽が、全てが結びついて奇跡のような密度の短編作品として完成されている。この記事を書くにあたって予告編を見直したら赤ちゃんが笑うラストカットが入っていて、あのカットの意味・重みはずっと作品を見てきてはじめてわかるものだという自信を感じた。

 『カニーニとカニーノ』はよくわからなかった。スーパーリアルな自然描写の習作?カニ人間とリアルカニが両方出てきたのはなんだったんだろう。自分をカニだと思いこんでいる一般人?母親も兄弟たちもいなくなったのは自然の厳しさの表現なのかと思ったらなんか生きてた。背景はすごかった。

 『サムライエッグ』は淡い手描き風の背景が3DCGのようにグリグリ動くのがすごかった。ダンス作画でキャラクターがグニャグニャしてて笑った。ストーリーはよくわからない。シャトルランの音階が音楽に変化していくのは面白かった。EDでクレジット眺めてたら横に野球少年たちの風呂の絵が出ていて危うく見逃すところだった。
アレルギーについて知らないのだが、頑張れば治るものなのか?生まれ持った病気のせいで日常生活に命の危険があるというのは僕には全く想像できない世界で、それを知れたのは人生経験と言えばそうかもしれないが、やりたかったのはそういう啓発ビデオのようなことなんだろうか。率直に言えば見ながらとてもつらい気持ちになったので娯楽ではないなと。恐怖や痛みを真摯に描く作品に価値がないというつもりはないが、それでもフィクションなら意味のわかる終わらせ方にしてほしかった。。
ママの関西弁とかダンス、シュンの野球、逆上がりができるようになったガールフレンドなど深読みするといろいろ仕込まれてそうな気がしたが、一度の視聴ではその辺りの意味はよくわからなかった。

あーそぼあそぼ!は『透明人間』の余韻に対してちょっと無神経な気がしないでもない。

· 15 min read

パンフレットも設定資料集も物語の展開を説明した部分が少なく、鑑賞後に筋を思い出すのに少し苦労する。設定資料集は新井陽次郎の設定画が大量に掲載されていていつまでも眺めていたくなる。

極上デザインの小学生が全編にわたって活き活きと描かれている作品なので、そういうのが好きな人はぜひ見よう。

以下ネタバレ テーマ?
小学4年生のみずみずしい好奇心がキャッチする日常に潜む不思議とか、ミステリアスな年上のお姉さんとか、そういう雰囲気をじっくり味わえばいいと思うが、その上でこの作品のストーリーに何かテーマがあるとすれば、それは喪失と成長だと思う。妹が「母親がいつかは死んでしまう」ことに気づいてアオヤマ君に泣きついてくるシーンは、実の親でさえいつかは失われてしまうという残酷な事実に気づく瞬間を描いている。同じようにアオヤマ君とお姉さんとの別れも避けがたいものだったが、その体験が彼の成長を促す。アオヤマ君が乳歯を失うのは大人の歯が生えてくる準備だ。「海」に吸い込まれたペンギン号が最後にアオヤマ君の手元に戻ってくるのは、手放すことの先に希望があるという救いのメッセージなのだと思う。
率直に言えばストーリーはよくわかりませんでした。必然性が。中盤まで謎解き展開で来て最後にリアリティレベルを下げて解決した印象がある。この点は原作が悪い。

性のメタファー
小学4年生のアオヤマ君と20代のお姉さんの関係を描いた本作は、性のメタファーに満ちている。まずおっぱいの形を模したケーキや地形は明示的に言及されている。他にも

  • キノコ型の給水塔
  • 長くて固いフランスパン:アオヤマ君がはじめてお姉さんの部屋に招かれるときに抱えている
  • 巾着袋の口を縦長に広げた状態:お父さんがアオヤマ君に裏返した袋は世界の全てを内側に含んでいると説明するとき

などがある。
もちろん冗談だ

ウチダ君とはなんだったのか
キャラ設定には「この作品で一番いわゆる普通の少年です」と書いてある。悪く言えばアオヤマ君の引き立て役である。よく転び、よく固まり、よく泣く。子供らしい感情を表に出さないアオヤマ君に代わって作品を盛り上げる役割も担っている。しかし彼は単なる舞台装置ではない。独力でアマゾン・プロジェクトを完遂し水路が無限ループしていることを突き止めている。また、興味深いことにアオヤマ君のおっぱいへの執着を聞かされて顔を赤くしている。
スズキ君のハマモトさんへの想いに気づいているあたり、彼はアオヤマ君よりも男女関係の機微に敏感だ。一方でアオヤマ君は女子生徒もいる中で気にせず全裸でプールから上がり、スズキ君から水着を取り返そうとする。プライベートゾーンへの意識が薄い(どうやら原作にはこの行動の意図が書いてあるらしいが知らなかったことにする)。
これらのことからアオヤマ君とウチダ君のおっぱいへの反応の差は、アオヤマ君がウチダ君(=作中の平均的少年)よりも性的に遅れていることを示唆している。性的な意識が薄いからこそ平然と口にできるのだ。

 アオヤマ君とお姉さんの関係、いや、アオヤマ君のお姉さんへの思いはまだ恋愛という形にならない、淡くおぼろげなものだ。名前のつけられない感情だからこそ、アオヤマ君は自分の言葉で頑張って語ろうとする。それがノートに記した「お姉さんの顔 遺伝子 うれしさ 完璧」なのだ。このスペシャル感は「普通」なウチダ君によって醸成されていることは覚えておきたい。

演出への違和感 痛みの感覚
スズキ君の絡んだ子供どうしのやり取りはコミカルに描かれることが多かったのだが、誰かが傷つく場面を無神経にギャグにしているシーンがあって辛かった。たとえばアオヤマ君がスズキ君に嘘の病気を教えて不安がらせるシーンでは、最終的に死んでしまうかもしれないと脅すときのイメージ映像がスズキ君の葬式で、遺影があって、同級生が泣いているという非常に具体的なものだ。冗談で「死ぬぞ」などと言うことは確かにあるだろうが、それをご丁寧に映像化されると笑う気分にはなれない。スズキ君が他のクラスメイトをいじめるシーンでも、いくら何でもそれは笑えないだろうと思うような過激な描写が散見されて「いじり」と暴言の区別がつかない人を見ているかのような気分になる。
でも隣の観客めっちゃ笑ってた。


キャラクター作画に乱れはほとんどなく、劇場の水準は満たしている。冒頭のペンギンが「海」に向かう道のりをドキュメンタリー風に撮った一連のシーン(OP原画:清水洋というのはここか?)、突然画風が変化する夢のシーン(夢パート:押山清高・橋爪陽平)、川野達朗チームの担当したというペンギンパレードのシーンが印象的だった。新井陽次郎のモブ生徒までこだわりきったキャラクターデザインも、石田・新井コンビの持ち味である教室の雰囲気の描写に寄与していた。
背景ではペンギンを見つける空き地や「海」のある草原の広々とした開放感のある絵が、密度の高い住宅地や屋内の描写と好対照をなしていた。

音楽
阿部海太郎という名前を覚えた。アオヤマ君がペンギンとはじめて出会うシーンで流れるバイオリンの整然としたメロディーや、その後に出てくるチェロの重音の使い方を聞いてバッハを連想した。クラシック音楽のバックグラウンドがある人なのだろうかと思っていたら、東京藝大卒とのこと。とは言っても佐橋俊彦も岩崎琢も東京藝大なので、出身大学で音楽家の作風を語るのはよくない。
インタビューで「生楽器にこだわった」とあるとおり、クラシカルな響きの音楽は広々とした空間を感じさせ、夏の冒険を彩るにふさわしい。大編成のオーケストラサウンドから小編成の室内楽サウンド、ピアノソロまで使い分けて、様々な状況・心情に寄り添う音楽になっていた。劇伴作曲家として確かな技量がある人だと感じた。


ウチダ君が一番気になった。丸みを帯びたデザインで内気で弱々しいキャラクターなので、釘宮理恵の強い声は合っていなかったと感じる。アオヤマ君はさんざん予告で聞いていたので違和感なし。お姉さんはもうちょっと澄んだ声の人が良かったんじゃないかと思うが、見終わって今から変更を主張するほどの違和感ではない。

小ネタ

  • 冒頭、アオヤマ君が双眼鏡でペンギンを見ながら車道に飛び出すシーンは、早く大人になることばかりを考えている(=遠くを見ている)一方で注意力などはまだ子供であるというアオヤマ君のアンバランスさをを表現している
  • 子供が未知の存在を発見して、大人に見せるとひどい目に合わされるからと隠す展開はお約束
  • 街から出られないまま世界の危機に対処するのはセカイ系的って言って良いのかな?
  • スズキ君、行動がことごとくひどくて最後にちょっと活躍したくらいでは埋め合わせになっていない。前述の演出の不愉快さと合わせて、割とメンタルを削ってくるキャラクターだった
  • ウチダ君もいいけどコバヤシ君(CV: 村瀬迪与)もいいぞ
  • 教室内でいつも話すグループが形成されているの(設定されているし描写もされている)、ハイレベルな教室描写だと思う。というか新井・石田の学校へのこだわりは尋常じゃない。『陽なたのアオシグレ』『台風のノルダ』と一貫している。
  • 久野遥子の初期デザインペンギンがキモい(褒めてる)
  • アオヤマ君の部屋には2段ベッドがありアオヤマ君は下で寝ているが、上に妹が寝ているシーンはない。以前は2人で使っていたが、妹の小学校入学を機に部屋を分けたとかそんな感じだろうか
  • アオヤマ家、新興住宅街に一軒家で母親が働いている様子がないとなると、お父さんはかなりの高給取りなのだろうか。『未来のミライ』のあとだけに気になる。ちなみにウチダ家はアパート。
  • 『未来のミライ』と言えば、「海」の中の世界がお姉さんの知識を反映したものになっているのは『未来のミライ』的か
  • イオンがそのまま作中に出てきて笑ったし、「海」の中のイオンがぼろぼろになっててもっと笑った。設定協力:イオンリテール株式会社。
  • チェスの盤面は全然わからなかった
  • 小4の8月までを描く作品で4年生の登場人物が全員10歳ってどういうことだよ
  • 宇多田ヒカルのED良い
  • アオヤマ君とお姉さんが最初にチェスをしているシーンでアオヤマ君がメロンソーダ、お姉さんがコーヒーを飲んでいたので、コーヒーは成長のシグナルとして使われるぞと思ったら案の定だった。なおこのシーンは窓の映り込みや格子を利用したレイアウトが冴えている。というか20代のお姉さんとチェスする小学4年生ってどこの世界にいるんだよ
  • お父さんがくれるチョコレートは何の意味があった?
  • 水のCGが素晴らしいと思ったが同行した友人は「リアルに近いせいで不完全なところが気になる」と言っていた。業が深い。
  • そういえばハマモトさんにほとんど言及していなかった。冒頭のモノローグで「結婚する相手はもう決めている」に合わせて映るのはお姉さんだったが、最後のモノローグでその部分で映るのはハマモトさんだった。ハマモトさんとそんなに特別な関係になってたっけ…?

· 13 min read

ネタバレは続きの方に書いた。

テレビアニメ1本分程度の尺の短編が3本。テーマ上の連関は一応ある。舞台は全て中国。映像美やら脚本テクニックやら、かなり新海を継承している、というかもはやコピーと言ってもいい。しかしコピーだからこそ、それでも同じにならない部分が際立つのであって、コミックス・ウェーブ・フィルムというブランドの進化のために価値がある作品群だと思う。尋常ならざるメシ作画があってそれだけでも一見の価値がある。 <食>陽だまりの朝食
ビーフンを祖母と2人で食べた幼少期の記憶、毎朝通ったビーフン店で意中の女子の登校を眺めた少年期の記憶が、それぞれあっさりと失われてしまったエピソードとともに回想される。
物語は現代に戻り、ふと都会のチェーン店で食べたビーフンは記憶の味には及ばなかった。そこで祖母の危篤の知らせを受け、急ぎ故郷に戻り祖母の最期を看取った。思い出のビーフン店の片方はまだ経営していたが、そこの席から見つめた初恋の人はもういないし、通っていた中学校も廃校になっていた。

冒頭から異様に反射率の高い水たまりやキラキラした町並みが出てきてなるほどビジュアル面ではかなり新海風を意識しているんだなと思ったら、20代男性のモノローグが始まってそこまで似せるのかと驚いた。内容も都会で物質的には恵まれた暮らしを送る主人公が、特に理由はないが精神的には追い詰められているというもの。
圧倒的な、というか異常なディテールで描き込まれたビーフンの調理風景(このためだけに見に行く価値がある)に合わせて、主人公のシャオミンが故郷で食べたお気に入りのビーフンのこだわりの調理法を語る。それが人生に疲れたというモノローグと同じテンションなので、お前はゴローちゃんかと笑ってしまった。
筋を要約すると「祖母を看取るために故郷に帰って思い出のビーフン食った」というだけの話であり、全編にわたるモノローグでいろいろと心中は説明されていたがほとんど覚えていない。実写畑のイ・シャオシン(易小星)監督が自らの体験をもとに作ったというこの作品は、主人公が成長したというわけでもなければ世界が救われたというわけでもない。都会に暮らす主人公が「食」を媒介にして故郷の田舎を回想し、最後にそれらの思い出が過去のものになったことを確認するというほの悲しい、叙情的な作品である。新海をリスペクトした精密かつ美化された背景は都会と田舎の空気の違いを雄弁に表現していたし、室内楽風味の小編成の音楽がパーソナルな感情への集中を促していた。「新海誠が作った孤独のグルメ」という呼称は広めていきたい。

<衣>小さなファッションショー
イリンは人気のモデルであり、ファッションを学ぶ妹のルルと2人で暮らしている。業界での名声は高く、イケメンの彼氏がいて後輩にも慕われている。しかしモデルという仕事の目的を見失っていた。イリンは後輩に仕事を奪われたことをきっかけに自分が若さを失いつつあることを意識し、ルルやマネージャーの心配も無視して体型維持のために無茶な生活をするようになる。それが祟って大事な仕事の最中に倒れてしまった。モデルを辞めようと思ったイリンは軽い気持ちでルルに「服飾のことを教えて欲しい」と言うが、それは姉に経済的な負い目を感じつつ本気で服飾を学んでいたルルのプライドを傷つけるものであった。しばらくルルと気まずい日々が続くが、マネージャーの手回しでルルの作品で突発のファッションショーをすることになり、初心に返ったイリンはモデルの仕事を再開することを決意した。

なかなか難しい、率直に言って3作の中で一番退屈な作品だった。もちろん悪い作品ではないのだが、技法面で新海をなぞっているというわけでもなく、ストーリーにすごいオチがあるというわけでもなく、特筆すべき点が見いだせない。伏線のようなものは随所に仕込まれているものの上手く活用されていたとは言いがたい。強いて言えばマネージャーのスティーブ(オカマ; CV.安元洋貴)が声・作画ともに遊び心をもって描かれていた点か。なお同行者は百合を嗜むので聞いてみたら、アリらしい。

<住>上海恋
一人暮らしを始めたリモは荷物から、そこにあるはずのないカセットテープを見つける。それは中学生の頃に幼なじみのシャオユと交換しながらメッセージをやり取りしていたテープだった。2人の人生の分岐点にさしかかる直前で渡されたテープを、リモは聞いていなかった。今すぐ聞かなければという思いに駆られたリモは、カセットテープの再生機器を求めてマンションから見える石庫門(中国の集合住宅の建築様式)の中にある祖父母の家に向かって走り出す。そこはかつてリモとシャオユが幸せな時間を過ごした場所でもあった。
思い出の場所を走りながらリモは中学時代を回想する。シャオユは親に進学校の受験を命じられた。リモは親の言いなりで志望校を決めたシャオユとそれでも一緒にいるために、シャオユには秘密で同じ高校の受験を決めた。しかし一方のシャオユはリモと離れないように受験でわざと失敗することを決めていた。そのメッセージを吹き込んだカセットテープはリモのもとに届けられるが、シャオユに追いつくために猛勉強中のリモはそれを聞かず、存在すら忘れていた。結局リモは合格して石庫門を去り、不合格となったシャオユと離れることになった。
舞台は現代に戻る。リモはかつてシャオユとともに過ごした祖母の家で過去のシャオユのメッセージを聞き、涙する。数年後、石庫門を保存して観光ビジネスを営むリモのもとに、留学から戻ったシャオユが訪れる。

シャオユの気持ちを知らないリモと、リモに気持ちが届いていないことを知っているシャオユ、そしてシャオユの気持ちを無視していたことに気づいたリモという重層化されたすれ違いが時間を超えて解消されるという構成はまさに新海節を感じさせる。テーマは『住』であり、場所をベースにした回想がリモの職業(建築家→観光ビジネス)とも絡み合い、見事に全体を統一している。今こうしてあらすじを整理することですごい作品なのではと思い始めた。
中学時代の交流の描写は素直で、新海らしい屈折は感じなかった。小道具としてカセットテープとテープレコーダーが使われていたが、これは世代によっては理解できないだろう(同じテープ上に連続して新しいメッセージを録音できるという性質が)。舞台としては歩道橋が繰り返し用いられた。階段を登るとか、狭い場所をすれ違うとか、道路から見上げるとか、様々な使われ方をしていて面白かった。

小ネタ

  • 『陽だまりの朝食』で中学生同士の喧嘩でナイフで足刺すシーンとかあって中国怖い
  • 『上海恋』で教室に中国の国旗が飾ってあって、日本ではないなと思った
  • プロローグとエピローグは大した内容はない。プロローグが空港で『陽だまりの朝食』でも飛行機移動のシーンがあったので、3作とも空港を利用するシーンがあってプロローグは偶然タイミングが一致したシーンを描いているのかなと思ったが、そういうわけではなかった。
  • ED曲『WALK』(ビッケブランカ)は好き。
  • パンフレットは一般的な劇場アニメのものよりだいぶ劣る。クレジットは公式サイトと同じくらいしか載ってないし、紙面が狭いので情報量も少ない。800円は高い。
  • ジェネリック新海は普通に面白かったのでジェネリック細田もやろう。ジェネリック宮崎はもう足りてる。

· 7 min read

このブログのタイトル「強くなりたい」はオタクとして強くなりたいという意味だ。具体的には知識を増やしたり見る目を養ったりすることを意味する。「娯楽の摂取に強さも弱さもあるものか」と思うかもしれないが、それは本物の強者を知らないからだ。自分が誰よりも詳しいと自負する作品を自分以上に見事に解釈する人間が現れたときのどうしようもない感情を知らないからだ。

最近の僕は自信を失っている。僕はアニメを何度も繰り返し再生して、絵や音で感情や状況を表現するミクロなテクニックを言語化する能力は人並みにはあると自負している。しかし作品全体を通してのキャラクターの感情の変遷や作者のメッセージを汲み取る能力はまったくない。特にそのような能力が必要とされる劇場長編の理解度は非常に低い。キャラクターがなんでその行動をとるのかわからないし、キャラクターになんでそういう行動を取らせたのかという作者の意図もわからない。「作者の意図」を絶対視する気はないが、作中の行動や出来事の意味が理解できないのは辛い。やっぱりそれがわかったほうが楽しいから。

そもそもアニメを見るのは難しいことだ。すごい量の視覚・聴覚情報をガンガン流しこまれ、それをリアルタイムで処理していかねばならない。処理の深さにはいろいろなレベルがあるが、非常に単純化すると以下のようになる。

  1. 生の感覚情報(網膜のこの細胞にはこの色の光が届いている)
  2. そこで起きている具体的な事象の認識(例:くんちゃんがおしりに犬のしっぽを刺し犬っぽく変身した)
  3. その事象が持つ抽象的な意味の理解(例:くんちゃんはゆっこに変身した…?でもこの空間はくんちゃんの妄想の中の空間…と思ったら家の中を走り回っているし両親もくんちゃんをゆっこと呼んでいるぞ…このシーンはくんちゃんの無邪気な変身願望…だけど身体ごとゆっこになることでゆっこの気持ちを理解したからこそゆっこの餌の改善を提言したのかな…いやそれは意味がよくわからない…とにかく細田守はショタコンでケモナー)

僕は正常な視覚(矯正あり)と聴覚を有しているので、レベル1の情報処理はほぼエラーなく行える。またアニメには慣れているのでレベル2の情報処理も大体問題はない。しかしレベル3は非常に難しい。

上記の例を見ればわかるようにレベル3の処理にはある程度の時間幅を必要とする。だがアニメは待ってくれない。じっくり考えている間に次のシーンに進んでしまい、次のシーンはレベル3どころかレベル2の処理すらエラーを起こすということがある。また反復は演出の基本なので、ずっと前のシーンと今のシーンが対応しているということがある。未来のミライで言えば空からくんちゃんの家にクローズアップしていくカットなどだ。このような時間的な間隔のある対応関係を理解するためには見たカットを一通り記憶していなければならない。もちろん直感像記憶能力でもない限り全て正確に覚えておくことは無理だろうが、似たカットが出てきたらすぐに思い出せる程度にはきちんとインデックスして格納しなければならない。

どうやったらこういう能力を高められるのだろうか。難しいことをできるようになるためには練習が必要だ。たくさんの映像作品を見る、たくさんの創作物に触れてストーリーの類型を整理する、あるいは単純に豊かな人生経験を積むことも意味があるだろう。

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随時更新する。

尾羽打ちさん

『未来のミライ』超絶大傑作。鳥瞰図を多用して何を見せたいのかと思いきや、自分の起源を見せていく構造だった。俯瞰により観測者の視点を与えるが、ある時に俯瞰で映された人が、天を仰ぎ見て手を伸ばすという、当事者の視点が織り交ぜる。上下の構図が逆転する。必死に生へしがみつく動作に感動。

— 尾羽打ち (@EOSikarosu) 2018年7月21日

『未来のミライ』自転車練習をする芝生という空間と、お父さんと妹がいるベンチとの距離によって生じる隔たり。親に見守られているが、親と別の場所に存在する不安感の提示が上手い。芝生上では、他の子供と触れ合い社会性を身につける場所、他人が見守る中で補助輪なしで走ろうとするという通過儀礼。

— 尾羽打ち (@EOSikarosu) 2018年7月21日

「社会性を身につける」は同意見。「通過儀礼」という言葉は思い浮かばなかった。

『未来のミライ』子供ディザスタームービー。ガキが暴れて物を散らかす背徳さを持つスペクタクルに酔う。その大暴れに批評性を持った、扉の冷え切った断絶が恐ろしい。扉の向こうから聞こえてくる叱り声と泣き声。扉から締め出され外に放り出され、雨に打たれる子供の不憫さ。

— 尾羽打ち (@EOSikarosu) 2018年7月21日

なんでこのシーンで雨が降ってたのか気になっていた。子供は親の支配に服しつつ家の中で暮らすか、さもなければ外で雨に打たれて生きるしかないってことだね。

『未来のミライ』未来のくんちゃん、絶対変な性癖に目覚めてるだろ。取り繕ってるじゃねーよ。

— 尾羽打ち (@EOSikarosu) 2018年7月21日

らぷたんさん

「未来のミライ」感想(ネタバレあり)

くんちゃん・ミライちゃん・ゆっこが同じ目標を達成することで家族のまとまりというものをくんちゃんに教えていく。

この3人組を家族としてみる視点はなかった。確かにゆっこは人間になってるしミライは未来版だけど、間違いなく家族だ。

くんちゃんが好きな電車で東京駅へ行ったり、新幹線でつれていかれそうになったりとくんちゃん自身に焦点が当たってることが分かりやすく表現される。

駅や新幹線はくんちゃん自身から出てきたもの(気づいてなかった顔)。

最後にミライちゃんを家族として受け入れることで、翻って自分自身を見つめ直す構成になっている。

家族としてのつながりを自分というものを認識できるとしても、おとうさんの息子でもおかあさんの息子でもゆっこの餌やり係でもなくどうして「ミライの兄」だったのか。敢えて自分より幼いミライを参照点とした家族関係で自分を定義したのは、守られて愛を与えられるだけでは家族のつながりの本質は理解できないということか。その点「ゆっこの餌やり係」でもいい気がする。でもそう思われては困るからゆっこ人間体はおっさん。

· 17 min read

他の人を意見を聞く前に、自分の考えを形として残しておきたかったので急いで書いた。勘違いとかあっても許して。以下ネタバレがある。

 未来のミライですが、ストーリーがきちんと構築されているかといえば、されていない。最も重要なセリフ「くんちゃんはミライちゃんのおにいちゃんっ!!!!」が出てきた理由がよくわからなかったし、過去の偶然の積み重ねがなければ自分たちが生まれていなかったというのも正直大したメッセージとは思えない。
それでも、僕はこの映画を傑作だと思う。それはこの映画が光と闇の細田守の融合によってひとつの境地に達した作品であって、それによって子供の心に深いトラウマを残す作品になっているからだ。

 『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』を通して細田守は変態少年愛者ではあったが、それなりに整った話を書いていた。つまり、今のシーンは前のシーンの影響を受けており、次のシーンに影響を及ぼすという単線的で焦点が理解しやすいストーリーラインを持っていた(『ウォーゲーム』『サマーウォーズ』では複線並行進行という感じもあるが)。

一方で『未来のミライ』の構成は以下のとおりだ。

  1. プロローグ
  2. ゆっこの章
  3. 未来のミライの章
  4. おかあさんの章
  5. ひいおじいさんの章
  6. 自分自身の章
  7. エピローグ

章を通したキャラクターの成長という要素は弱く、オムニバス的な構成になっている。単線ではなく放射状のイメージ。各章で違ったテイストの物語が繰り広げられるのが面白い。

7/21 12:19追記 
【インタビュー】企画段階から「無謀」と言われた、それでも――細田 守が4歳児を主人公に選んだ理由 

今まではそれぞれの話が並行して進むという作りをしてきましたが、今回は、ペットの犬、ミライちゃん、おかあさん、おとうさん、そして、くんちゃんの話と5本立てになっています。映画の脚本の基本である三幕構成からはみ出して、家族を一巡して描いていく中で、くんちゃんがどんどん変化していく様を見せられたらいいな、と。最後に自分の話に立ち返るところが、ひとつのポイントではないかと思います。

 
1章はいろいろ説明。くんちゃんが模型電車で壮大な街を作り上げているのは父の建築家としてのセンスを受け継いでいることの表現だろうか。『バケモノの子』で細田は父親が息子に刻印を残すことにこだわっていたので。
2章はオムニバスの最初のエピソードで、視聴者の中のリアリティレベルを破壊する役割を持つ。犬が人間になって急に喋るし、かと思ったらくんちゃんはそのしっぽを引っこ抜いて自分に差し込み、犬になって家の中を走り回る。爽快なアクションが楽しい。
3章は真面目な未来のミライとコメディリリーフであるゆっこ(人)、そして最も幼いが唯一父親とコミュニケーションできるくんちゃんという凸凹3人組のギャグパート。3人の中で一番しっかりしている未来のミライですらその目的は「結婚のチャンスを逃さないように早くお雛様を片付ける」というギャグ。未来のミライちゃんがくんちゃんに歪んだ性癖を植え付ける。
4章はおかあさんの過去。現実世界では最もくんちゃんに厳しいのがおかあさんだが、この章では大人が登場せず、子供だけの世界にすることで誰にも束縛されない素顔のおかあさんを描いている。雨が降っているのは室内遊びの妥当性を高めている…のかな?もっと他の説明ができそうなんだけど。ここでくんちゃんが手紙を靴の中に入れるメソッドを学習し、5章ではそれによって念願の自転車を手に入れている。
5章は父性・ホモソーシャル。テーマ的にはバケモノの子の前半部の再演とも言える。ひいおじいさんは少し強引に、ある意味では強権的にくんちゃんに新しい経験を与え、進歩させる。そして自転車に乗れるようになったくんちゃんは同性の遊びグループに迎え入れられる。「おとうさんは知らない女の人と楽しげに話しています」という恨みがましい文言がご丁寧にパンフレットに書いてあるのも、異性を排除したホモソーシャルへの憧れの表現だろうか。
そして6章は細田の壮絶な闇が吹き出す。この異常なテンションに僕は中てられてしまった。一人で家出したくんちゃんが遺失物係と問答し「ひとりぼっちの国」行きを宣告される。未来東京駅や遺失物係の異様なデザインはそれまでの世界観とは全く違う厳格で残酷なルールの存在を想起させる。異常な世界のなかで無力な子供が翻弄される不安感はきっと見ている子供たちに強烈なトラウマを残すだろうし、そういう作品を、そういうワンシーンを作って爪痕を残してやるという細田守の意欲を(勝手に)感じて僕は圧倒された。
7章エピローグでは白背景オレンジトレスのおなじみ細田空間でくんちゃんと未来のミライちゃんがこれまでの総決算のようにいろいろな世界を見ながら、過去の偶然の積み重ねでいま私達が生きているというような話をする。だがそれはどうでもよくて、4章でおかあさんが猫を飼いたがっていたにもかかわらず、その後猫にツバメ(そういえばこの世界の道案内をする鳥はツバメだし、くんちゃんが最初にミライにつけようとした名前もツバメ)の赤ちゃんを殺されて猫が苦手になってしまったという強烈なエピソードがある。特に意味もない後味が悪いだけのエピソードをここにくっつけることで物語にどういう効果があったのか僕にはよくわからないが、絶対気持ちの良いだけの物語にはしないぞという細田守の決意がここから感じ取れて感動した。ひいおじいさんが必死で泳いだ話は気持ちよくはないけどそのおかげで今のくんちゃんたちが生まれたという意味付けができてしまうが、おかあさんの猫の話はそういう意味がない。それがいい。

 
総括すると、細田守はこの映画でつじづま合わせやきれいなオチ、美しいメッセージなど商業的・社会的な要請は二の次にして、とりあえず描きたいものを全部乗せした。そして6章ではストーリー上の妥当性を超越した演出のセンスで理不尽な恐怖を描いて視聴者トラウマを残すようなシーンを生み出した。構成のまずさは瞬間火力で凌駕すればいいのだ。映像演出の専門家が最大限に強みを活かすためには、むしろ丁寧な脚本なんて邪魔なのかもしれないとまで思わされた。一本で数十億を稼ぎだす超売れっ子映画監督になったこのタイミングで、細田守が細田守として復活した。それが僕は嬉しい。

小ネタ

  • 主題歌が最初と最後の両方に流れるのは良い。アーティスト名詐欺感が薄まる。
  • 「家族の年齢を適当にシャッフルしてワイワイやりたかったから思いつく限りのシチュエーション試した」と言われても納得するし、それが楽しかった。現時点での細田守がこんな作風転換というかリアリティレベル変更ができるとは思っていなかった
  • 妹の名前について4歳の兄に意見聞く?
  • エピローグでおとうさんとおかあさんが車に荷物を積んでいって、それによって画面が狭くなっていき、2人の距離も接近していくという演出がよかった。結婚して時間がたって、物理的にも精神的にも背負うものが増えていって、それはしんどいことなんだけれども、気づいてみたらずっと一緒にいた…みたいな。理想の夫婦像?結婚に夢持ちすぎ?
  • 幼稚園に行くシーンで唐突に現れたあのイケメン何?
  • おかあさんやおとうさんの名前がわからないシーンはどういう含みがあったのだろう。親の視点からすると子供の世話に忙殺されて自分の時間を取れないことの象徴的表現になるだろうが、くんちゃんが両親の名前がわからないというのはどういう見方をすればいいのかわからない。単なる「ありそう」なネタ?
  • 冒頭のアルバム写真風演出でおとうさんとおかあさんが巨大な本棚の手前で読書しているシーンで「あースノッブ!!!」と思ってしまった。悪い視聴者。
  • 兄を性的に目覚めさせる妹、妹にバナナ食わせる兄
  • おとうさんの過去ネタが少ない一方でくんちゃんがほとんど面識がないであろうひいおじいさんのネタに1章割かれていたのはなんだろうか。僕は「先祖は、たとえ自分と直接の関わりがないとしても、その人が欠けたら自分は存在しない」という極端な事例を加えて、7章のまとめを強化する意味があったと思う。
  • パンフレット読んだら星野源が「後半の、子供が観たらトラウマになりそうな不気味さ」と言っていて、よくわかってるじゃん!!という気持ち。僕は子供にトラウマ残すというのはすごく大事だと思っていて、ナージャの細田回やアニマトリックスの大平作画はアニメオタクになる前に見たが強烈に印象に残っている。
  • この家の構造とんでもないよね。子供が小さいうちは危険だし両親が老いたあとも危険。なおデザインしたのはマジモンの建築家で不便さはわざとだそうです。
  • 手のアザの意味って本人確認だけ?
  • PANしながらカットを割らずにキャラの位置を変えて時間経過を表現するやつ、今回はCGバージョンになって多用されてた
  • パンフレットの衣装・伊賀大介さんのインタビューめっちゃ面白いので買って読んで
  • 音楽は賑やかでありつつも主観的になりきらない抑制が効いていて不思議だった。逆に『おおかみこどもの雨と雪』は全編が雪の回想であり全てが主観で感情的、そして音楽もそういう風に作られていたのだと理解した。
  • 川村元気はプロデューサークレジット4人中4番目なんだが何をどのくらいやったのか気になる

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※本記事内の画像・動画は『キャプテン翼』OPより研究のために引用したものであり、それらの権利は高橋陽一/集英社・2018キャプテン翼製作委員会に帰属します。

絵コンテ・演出 ソエジマヤスフミ

ボールや翼と関係がある鳥と地球のモチーフを随所に散りばめ、全てのカット間に意味的・図形的な関連を持たせて映像に流れを与えるとともに、各カットにもモチーフの象徴的な意味によって重層的な意味を持たせている。

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鳥をデザイン化した絵によって鳥と飛行機の関連性を提示している。
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走る翼が鳥に変化するカットによって翼と鳥の関連性を提示している。そもそも翼という名前自体が鳥と関連が深い。
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どこにでも自由に飛んでいける鳥を介して静岡でサッカーをする翼と船乗りである父を接続している。
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さらにブラジル(→日本)へのダイナミックな空間的移動を地球のモチーフや緑・黃・赤の三色の帯(ブラジルと日本)、空港の表示板を用いて滑らかに表現している。
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ブラジルから来た師匠を飛行機→鳥→サッカーの試合とつなげる。ここでボールを蹴っているのは翼だと僕は思う。

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オーバーヘッドシュートの直前にボールに鳥の翼が写り込んでいる。翼を持った鳥のようにどこまでも飛んでいくシュートとも読めるし、鳥(=飛行機)が繋いでくれた父と師匠に見守られたシュートであるという読み方もできる。
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翼がサッカーを通して世界的な名声を獲得していくことのイメージかな。

今回はモチーフの使い方に絞って紹介したが、単純なデザイン的センスやサッカーの作画も素晴らしい。サビの一連ではCG背景を上手く活用し違和感のない程度に身体能力を誇張した、ハイセンスな作画が見られた。