非常に良かった。
東日本大震災という現実の出来事を名指しして、アニメ映画の形を借りて行った鎮魂の儀式だったと解釈しました。そう考えると、これまでの『君の名は。』『天気の子』とは違う問題意識(問題意識という言葉を、私は好んで使います。アニメを作る上でとても大事なものだと思っています)の上に作られた作品だったなと思う。友人の言葉を借りれば過去の作品群は「キャラクターの関係性を描くために設定を作った」一方で、今作は「現実の事象が先にあって、後からキャラクターを造形してそう」ということで、私もとても納得しました。
儀式なので、式次第は予め決まっています。『天気の子』のようにキャラクターが勝手に雲の上で「青空よりも俺は陽菜がいい」と絶叫したりしない。日本各地を訪れながらかつてその土地に生きた人たちを思う。ただそれだけで十分この作品の意義は全うされたと思います。極端に言えばすずめ自身の過去の受容とか、草太や環との関係すら、僕はサイドストーリーでしかないと思っています。
地震をアニメに落とし込むための諸設定およびビジュアルが良かったです。近年の新海が好んで用いてきた「古来の神話伝承との接続」が今作でも用いられ、地震はミミズという存在(生き物?神?)として表現される。巨大なミミズが地面に倒れ込んで地震が起きるというビジュアルに説得力があったのがまず良かった。そこに説得力を与えていたのは、ミミズ自体の禍々しいデザイン、新海が得意とする精密な背景描写、ミミズの巨大さを目一杯表現する種々の周辺描写(カラスの群れ、土煙、轟音、破片、振動)、そして緊急地震速報をアレンジしたような(と思うんだけど、気のせいかもしれない)音楽。『ぼくらのよあけ』もそうだったけど、テーマをアニメに落とし込むためのビジュアライズというのはとても大事ですね。
特に東京編では空を覆う異形のミミズと音楽の迫力が素晴らしく、これだけで映画館に来てよかったなあと思ったのですが、そこで草太を失ったすずめが東北行きを決意するシーンの流れが一番好きだったな。重苦しい劇伴がシームレスに予告で聞いたあの歌(「ル→、ル↑ールルルルールールル」のやつです)につながり、すずめが服を着替え、髪を結び、靴を履いて出発する。物語の中盤の山場が終わり一旦落ち着くかなと思ったところで、次に向かう推進力を途切れさせず、視聴者としての展開の予想が全く追いつかなくてワクワクしました。今気づいたけどこの構成は『デジモンテイマーズ』23話と同じだ!当座の困難は脱したけど取り返さなければならないものができたというときに、次の展開に向かう推進力を見せるところまでをひと繋がりに表現する(こちらも挿入歌が入る!)(Take a Chance♪誰より早く掴みにゆこう…)。
新海いい意味で狂ってんなと思ったのは、上記の決然とした流れが芹澤(これ神木くんだって気づかなかった…)という協力者のタイムリーな登場でさらに盛り上がり、さらに口うるさい環の登場でちょっと停滞するのかなと思ったらギャグの方にするりと抜けて全然感触が違うアニメがここから始まったところ。まさかニーチャンとおばさんと女子高生と猫のオープンカー旅が始まるとはさすがに思わないじゃないですか。そんな猛烈な振れ幅すらコントロールしきる自信を見せられて、新海の監督としての成熟した能力を感じました。
まあそこからはすこし停滞したかなという感じもあった(懐メロにそんなにノレなかったので…)んだけど、すずめと環の危うさを孕んだ関係が、実家に近づくにつれて変化していくのはロードムービーという建付けと噛み合っていて良かった(それが「それだけじゃない」のたった一言で解決するバランス感覚もすごかった。サイドストーリーだからね)。これまでの作品にもあった新海の土地へのこだわりのな延長線上にあるなと。
作中通していろいろな交通手段を使っていて(自転車フェリーバイク自動車新幹線オープンカー自転車…ああ、こうしてみると最後に自転車に戻ってきたことにも意味があったのかもしれないね)、誰とどういう位置関係で乗っていたのかということも含めて、変転していくドラマの段階を表現することができていたと思います。加えて、東京編ではすずめが道路を横切ろうとして自動車に遮られるシーンや、扉の場所に行こうとするけど鉄道のトンネルの中だから入れないシーンが出てきます。これまで手段として活用していた移動手段が一転して障害になるこれらの描写は、災厄を防ぐための旅だったのに結果として草太を要石として犠牲にするしかないという状況の入れ替わりを暗示しているのかもしれません。
新海はパンフレットのインタビューで「描くべきことを描けないままにしてしまっているような気分が残っていた」と述べています。趣味を詰め込んだアニメも好きですが、使命感によって描かれるアニメもまた良いものだなと思わされました。