コミカライズ・小説等は読まず、公式の予告動画は観ていきました。
ほとんどの展開や伏線は把握したと自負していますが、1回見ただけの感想なので理解の不足があるかもしれません。
例によって鮮度重視の文章なので完全に言いたいことを表現できているわけではないですが、ご了承ください。
感想の変遷としては
視聴中(前半):超楽しい。ワクワクする
視聴中(後半):なんかごちゃごちゃして着地点が見えない
視聴直後:なんか納得できなかったな
視聴後数時間:でも作品に込められたメッセージは何となくわかってきたぞ
視聴後12時間:数点の重大な問題を除けばかなりの良作だったはずでは
という感じ
さて、この作品の問題点としては、後半になって要素が増え話が拡散してしまったことが挙げられる。
特に重大なものを挙げる。
①成長した九太が熊徹とたもとを分かつ描写が弱い。
17歳になった九太は熊徹とのいさかいの末に人間界に戻る。これが成長に伴う親子関係の変化なら納得できるが、二人の言い争いは8年前から変化がないように見える。どうせこの二人ならそのうち仲直りするだろうと思えてしまう程度の喧嘩でしかないのだ。結果として九太と熊徹の別れを、偶然人間世界への道が開けたという外部の出来事に頼って描いてしまっている。もちろん子が成長によって見聞を広げ、それによって自然と親から離れていくことをアニメ的に表現したという事もできるが、もしそうなら九太の見聞の広がりのきっかけとして「いきなり『白鯨』を読み始める」というわけのわからないエピソードを使うのは悪手だったろう。
これでは変化を乗り越えた二人が成熟した(より対等に近い)親子関係を結び直す象徴である「宗師決定戦でのセコンド」が活きない。二人が何を失って取り戻したのかが十分に描かれていないのだ。その象徴として、一度渋天街に戻り猪王山宅で二郎丸と会話する九太が「熊徹とはなんとなく気まずい(記憶を頼りに書いてますが)」という言葉を使っていることだろう。「なんとなく気まずい」程度のいさかいでは、それが氷解したところで得られるカタルシスも不十分だ。
そしてそのまま熊徹が自己犠牲によって(親は死んでも子の心に生き続けるというメッセージをストレートに示した)九太と一体化するシーンも、何を経てここに至ったのかということが今一つ明確ではない。これもまた、九太が一郎彦と戦うというシチュエーションが九太の成長によって発生する問題ではなく、外部から与えられた問題だからだろう。九太の力が不十分だから助けてやらねばならないという展開は悪くはない。しかしその理由が「闇に取りつかれた一郎彦と戦う」では突飛すぎる。敵が強大過ぎるのだ。九太の力が不十分云々ではなく、敵が未知かつ強大過ぎる。これでは九太が戦わねばならない理由がわからない(熊徹の敵討ちというには九太に殺意がない)し、熊徹が力を貸せばどうこうなる問題かどうかも現実的にイメージできない。
結果として後半から熊徹と九太の父子関係の転換が物語上の大きな出来事によって与えられるので、見ていてよくわからないのだ。
外部から機会を与えられて成長するばかりでは、父子の成長の物語としての説得力は足りない。
②一郎彦の「闇」
まず第一に「闇」って何なんだということ。単純に「悩み」だとか「くじけそうになる心」を表現したかったのだろうか。それにしては描写が暗すぎるし、「闇」という言葉では漠然としすぎていて表現できていない。さらに、あれほど人間らしい感情を見せるバケモノ達には「闇」が宿ることはないという。これもまた納得できない。「闇」が自然な感情の一面であるのなら、それがバケモノ達に宿らないのはおかしいと思える世界観だった。逆に「闇」がなにか特殊な現象であるのなら、それはもっときちんと説明すべきだった。胸の穴のイメージ映像によって繰り返し表現された「闇」だが、納得できなかった。
加えて、一郎彦というキャラクター自体がそれほど詳しく描写されていたわけではなく、ラスボスを務める資格がないと言わざるを得ない。多忙な猪王山がなかなか子の相手をしてやれないことが(熊徹との対比によって)その子の成長にも悪影響を与えるというのなら合理的なつながりだが、結局一郎彦を闇に溺れさせる原因は人間という出自(=設定)であり、そこに至る父子関係は軽んじられている。極端に言えば、猪王山が最初に言った「人間の子など連れてくるべきではない」という言葉が最後まで生きてしまったのだ。本来は「人間だろうとバケモノだろうと父がきちんと育てれば立派に育つ」と解決されるべき問題だろう。
③さらに細かいことを言えば
・楓の立ち位置
九太が成長したことを示す手っ取り早くて効果的な手段は異性関係だったろう。しかし二人はほとんどそういうことを匂わせなかった。このあたり細田監督らしいという気もするが、楓が勉強を教えるというひねった展開にはやはり違和感があった。これは個々のキャラクターがそういう行動をとるのは「らしくない」という意味と、視聴者目線で「異世界ファンタジーの直後に大学受験の話は唐突」という二つの違和感を含む。
・実父の立ち位置
無論九太が実父と熊徹、二人の父親(=二つの世界)ともうまく関係を作れないなかで孤立を深めて闇を生むという展開は必要だった。
しかし九太と実父との関係にはひねりが無さすぎる。ストーリー上のリアリティの話ではなく、「ただ優しく待ち構えている父親にうまく甘えられない」という問題は、九太と熊徹の関係と比較してあまりにも甘く、つまらない。簡単に解決でき過ぎるし、実際そうだった。
とここまで厳しい意見を述べてきたが、後半に比べて前半はよかった。何より九太がかわいらしいし、九太が熊徹と徐々に距離を縮めていくところはほほえましかった。
というか前半部分はそのことが揺るがぬ目標としてあったから、まとまりがあった。
最初の熊徹vs猪王山は迫力があったし、ひとりぼっちの九太が同じくひとりぼっちの熊徹に親近感を感じるというのも納得できた。
脇を固める百秋坊・多々良もいいキャラだった。演技もデザインも素晴らしかった。
全体としてバケモノ達の表情は繊細に描かれ、気に入った。
ただ残念なのは、高木正勝(と足本憲治)による音楽が前作ほどのとがった魅力を持たなかったことだ。
前作の曲は明らかに「劇伴らしくない」音楽だからこそ、主観的な(『おおかみこども』は雪の回想)物語をよく支えていた。
それに比べて今作はもう少し客観的な描写の仕方をしており、それに音楽を合わせたのかもしれないが、前作ほどの独創性は感じなかった。