『想いよ届け! プリンセスVSプリンセス!』
脚本:成田良美
演出:三塚雅人
作画監督:稲上晃
原画:板岡錦ほか
これまでの記事では 出来がいいと思った話数を総合的に考察したが、今回は特定のシーンの話である。
それは、Bパートのキュアフローラとトワイライトの戦闘シーンだ。ひさびさにテレビアニメで興奮した。
ここではアニメが情報伝達に使うことができる複数のチャンネルが様々に絡み合って独自の空気を作っていたと思う。
<音>
まず、今回取り上げるシーンの台詞を書き出してみる。
希望はある
今、わたしの目の前に!
「フン、ならば、おまえが希望とよぶ者の手で朽ち果てよ」
ヴァイオリンは心を閉ざして弾くもの、あなたはそう言ったよね。
でもわたし、あなたの演奏にすごく感動した
あなたみたいに弾けるようになりたいって思った
それはきっと、あなたの音色は心を閉ざしても抑えきれない夢
それに、遠く離れたカナタへの思いであふれていたから
「言ったはずだ、王女の心は消えうせた」
心のない人に、あんな素敵な演奏できないよ!
あなたのこころは無理やり閉ざされているだけ
あなたの夢も、カナタへの思いも、その中で生きてる!
「あなた」という言葉からわかるように、キュアフローラはトワイライトに語りかけている
つまりこの一連の台詞は、一人の登場人物がもう一人の登場人物に向けて語ったものである。
しかし私はそれだけとは感じられなかった。キュアフローラの口を借りて、何かもっと大きな存在が語っているように感じられた。
(大きな存在…脚本家とか演出家とかそういうメタなレベルではなく、あくまで作中の存在を想定している)
その理由は台詞・BGM・効果音の音量の関係にある。
現実の一場面、もしくはドキュメンタリー作品などを想像してみよう。
そこにBGMは存在しない。つまり、BGMの存在は作品の非現実性を高める(BGMの不在が現実性を高めると言ったほうが正確かもしれないが)
そして効果音と台詞(ナレーションではない)は同じ時空間で発生しているため、音量レベル、というか音の距離は同じはずである。
加えて両者ともに現実の出来事に根差しているのだから、それらは時間的に相互干渉する。
難しい言い方になるが、例えばパンチを繰り出す時、「フンッ」という掛け声と打撃音は連動しているということだ。
現実的な音響をイメージしたところで、今回のシークエンスではどうなっていたのかみてみよう。
上記のセリフの開始に合わせてBGMが入る。1話の見せ場でも使われていた曲である。
頂点に達するのは2人の技が激突する瞬間である。
BGMが使われていること、そして曲の頂点が映像の頂点とシンクロしているのは、きわめて作為的・非現実的な印象を与える。
効果音と台詞はどうだろうか。
そう聞こえたというだけなので説得力を欠くかもしれないが、打撃などの効果音に比べて台詞の音量が大きい気がする。
特にトワイライトが上昇しながら青い炎を凝縮させるあたり(台詞5行目)からが顕著である。
加えて、キュアフローラのセリフは長回しのカットにおいて肉弾戦の状況と関係なく発せられている。
ではこれらの表現はいったい何を表現しているのか。
おそらくそれは、台詞が「その時その場所にいるその人物の言葉」以上の意味を持って「視聴者に」語りかけているということである。ナレーションをイメージしてほしい。
また、ここまで全く触れていなかったが、殴り合いの相手であるトワイライトが一言も発しないことも印象に影響しているだろう。
<映像>
映像面でも上記の印象をサポートするような工夫が見られた。
それが「口パク隠し」である。
キュアフローラの口パクが映るカットがあれば、それはキュアフローラの「その時その場所」性を強めると言える。
なぜなら画面の中のキャラクターは「その時その場所」に存在することが明らかであり、口パクは聴こえてくる台詞と画面の中のキャラクターを結びつける役割を持つからだ。
そこで、キュアフローラの口パクが明確に映されている箇所を太字にしてみた。
長回しの格闘シーンは、よほど注目していない限り初見ではっきりと視認することは困難だと考え除外した。
希望はある
今、わたしの目の前に!
「フン、ならば、おまえが希望とよぶ者の手で朽ち果てよ」
ヴァイオリンは心を閉ざして弾くもの、あなたはそう言ったよね。
でもわたし、あなたの演奏にすごく感動した
あなたみたいに弾けるようになりたいって思った
それはきっと、あなたの音色は心を閉ざしても抑えきれない夢
それに、遠く離れたカナタへの思いであふれていたから
「言ったはずだ、王女の心は消えうせた」
心のない人に、あんな素敵な演奏できないよ!
あなたのこころは無理やり閉ざされているだけ
あなたの夢も、カナタへの思いも、その中で生きてる!
これが多いというべきか少ないというべきかは判断しかねるが、回想のカットや顔アップでも口を映さないカットが複数あり、意図的に隠していたと考えるのが自然だろう。
つまり、口パクを意図的に隠すカット割りがキュアフローラのセリフを「その時その場所」から切り離すはたらきをした。
もうひとつ、キュアフローラの表情や動きもどこか不思議な印象を与える。
キュアフローラは激しい肉弾戦のさなかでも笑顔のままである。
加えて、その動きもどこか優雅なものを感じさせる。
具体的には「あなたみたいに弾けるようになりたいって思った」のところではクルリとその場で回転する動きが入った。
長回しの肉弾戦のカットもなんとなく優雅な動きに感じられ、コマ送りしてみるとバレエを思わせる姿勢や動きが随所に取り入れられており、印象が裏付けられた。おまけに最後には敵に背を向けて祈るポーズまでしている。
これらの描写は、キュアフローラが「その時その場所」の戦いというシチュエーションに拘束されていないということを暗示する。
むしろ、キュアフローラの内面からあふれ出る慈しみの感情が感じられる。
<総括>
上記のように、BGMと状況のシンクロ、台詞の音量の大きさ、一人称的な語り、口パク隠し、シチュエーションに縛られない所作などの様々な工夫がこのシーンには用いられていた。重要なのはそれが音と映像という2つのチャンネルをフルに活用し、総合的なメッセージを表現していたことである。
ここで冒頭の印象に戻ると、キュアフローラが物語世界の「その時その場所」を超えて語りかけてくるという印象が、何か大きな存在がキャラクターの口を借りて語っているという印象につながったのだろう。
あるいは、キュアフローラが「その時その場所」を超えた大きな存在になっていると言ってもいいかもしれない。
また言い方を変えれば、作品そのものが三人称的な事実の描写から、一人称的で内面的な語りに一時的に変質したというべきか。
感じたことを直接言い表すのは難しいので、婉曲的な表現の積み重ねになってしまうのがもどかしいのだが…
このような気合の入った演出が時折現れると嬉しいものだ。