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『天気の子』を見た(おはなし編)

· 6 min read

とんでもねえ作品を見てしまったと思った。新海誠という男に恐怖した。

「好きな女の子を取り返したのと引き換えに東京は3年間雨が降り続いて水没した」というとんでもない展開、つまり僕と君との関係が圧倒的に社会を凌駕してしまう展開をこともなげにやってのける新海誠という男が本当に怖い。

もちろんこれは『君の名は。』で田舎を水没させたことへのアンサーだ。いや、アンサーになっているのかはよくわからない。「田舎なら水没させていいと思っているのか?」という問いに対して「だったら都会も水没だあ!」とやるのは狂気だと思う。彼のロジックというのは「どうせ大昔は海だったんだし、そもそも自然の摂理には逆らえないんだから街が水没したくらいのことでゴチャゴチャ言うな」だ。わからなくもないが、やっぱり何らかの事情で住処を追われた人がこれを見たら怒るとは思う。

幸せに青春を満喫していた帆高たちを追い詰めるのは社会と自然だ。社会=警察は帆高を捕まえようとするし、自然=天は陽菜を人柱として奪い去ろうとする。これも『君の名は。』に似ている。社会は町長である父親だったし、自然は彗星だった。ただ、『君の名は。』では三葉が父親と対話することで社会を動かしたが、よく考えるとこれは結局父と娘のパーソナルな対話でしかなく、実際に社会と対話しようとしていた勅使河原や早耶香のもくろみは失敗している。この社会とのディスコミュニケーションは『天気の子』では更に推し進められている。帆高と警察の間に交わされる対話は暴力であり銃口だ。

銃がこの物語に必要だったか考えてみると、実際のところ要らない。警察が帆高を追う理由付けは家出少年というだけで十分だ。そこに敢えて銃という小道具を取り入れたのは帆高と社会、もっと言えば人と人の対立を強調したかったのではないか。

大詰めのシーン、帆高は片手に手錠をかけられるが、そのまま神社に飛び込んで陽菜を救いに行く。そこで帆高は「ずっと雨でもいいから陽菜を返してほしい」と願う。この願いが社会に巨大なダメージを与えたのは前述のとおりだが、警察はこのやりとりを一切知らない。当たり前のことだが警察は帆高・陽菜と天の間で起きていることを何も知らない。知らないまま暴力で帆高を従わせようとする展開は見ていて心が痛かった。しかしその埋め合わせとして警察が帆高と天の事情を知って納得するというような生ぬるいシーンはない。警察は天に比べれば無力な存在なので天の事情など知る由もない。これは「100年も観測してないのに観測史上最大がなんだ、この天井画は800年だぞ!」というセリフに見て取れる。手錠は全てを見ていて知っているのだが、警察の人間は誰一人知らない。その対比に気づいてわずかながら溜飲が下がった。

社会に希望はないけど「僕」は「君」を愛しているので大丈夫!というストロングゼロみたいな価値観を純度高くやってのけた作品、というのが僕のイメージだ。