※本記事内の画像は『月がきれい』より研究のために引用したものであり、それらの権利は「月がきれい」製作委員会に帰属します。
月がきれい3話。テレビアニメのお約束に則り3話で最初の山場を持ってきた。
太宰治『チャンス』が引用された意味だとか、天才・荒木涼の圧巻の作画とか、語りたいことはたくさんあるのだが、せっかく挿入歌も入ったことなので、今回はBGMの使い方からこの回の演出を考察していく。
まずBGMが使われたのは5回(挿入歌を含む)である。少ない。
<BGMがあるところ>
1.小太郎の部屋と茜の部屋、LINEでの会話
小説が落選して落ち込む小太郎
座り方が本当に落ち込んでる感あって笑ってしまう。肩の落ち方が良い。
繰り返す「シミーシミー」の音型に重ねて息の長いメロディーが展開し、どことなく暗さの中に希望を感じさせる。
LINEで相談された茜は、かつて自分がかけてもらった言葉を返す
EDのサビのアレンジである。いい雰囲気。
2.部活
1話でも使われていた部活のテーマ。3拍子でいろいろな楽器が含まれていて、楽しげ。
茜はどうだかわからないが、小太郎は茜へのアプローチを検討している。
ニ長調からヘ長調に転調するタイミングでシーンが切り替わるのも見事。
3.小太郎の部屋と茜の部屋、LINEでの会話②
にわかに色気づく同級生達を見て焦り、小太郎は行動を起こそうとする。
その焦燥感・不安感がヘ短調の物悲しい響きとシンコペーションのリズムで表現されている。
4.茜の本番と小太郎の神頼み
自己ベストを目指して本番に臨む茜と、彼女の成功を祈る小太郎。
5.神社の裏
茜の自己ベストを祝う小太郎。
1のEDアレンジの、さらに調が違うバージョン。半音上がっているのは、少し関係が深まったことの暗示だろうか。
<考察>
5を除くと空間的(あるいは時間的)に隔たった複数のシーンを統合・接続するためにBGMが使われている。
まず前提として、この作品はドキュメンタリー的な映像の作り方をしている。その根拠は以下の2点である。
- カメラワークが少ない(1話22カット、2話47カット、3話22カット、参考までに『この美』12話は12分時点で40)
- BGMが少ない
加えて3話では以下のような演出上の特徴があり、これも「ドキュメンタリー感」を高めている。
- 望遠のカットが多い
- アクセントとしてキャラを意図的に中央から外したカットが挿入される
このような映像の作り方をすると、我々は映像を作っている制作者の意図を感じにくくなり、キャラクターが存在している世界に没入する効果が得られる。これは作品全体としては思春期の等身大のキャラクターの心情を説得力をもって描くことに寄与している。
しかし1や3のLINEのコミュニケーションであれば、我々が感じ取るべきは小太郎や茜がいる空間のそれぞれの雰囲気ではない。別々の場所にいても小太郎と茜はつながっていると感じられる演出が望ましい。
2は小太郎と茜の直接のコミュニケーションではないが、小太郎は間違いなく茜のことを考えているし、茜はもしかしたら小太郎のことを考えていたかもしれない。ここでも離れた空間にいても想い合っている(?)ことが表現されるべきである。
そして見せ場である4は、小太郎は本気で茜を応援していて、しかもそれは茜のそばにいられるかどうかは関係ないということを演出で強く印象づける必要がある。このとき音楽によるシーンの擬似的な接続は非常に強力な武器になる。すなわち、同じ曲・同じ声が流れ続けていることによって、離れていても心はつながっているということを表現できるのだ。さらに挿入歌であれば歌詞があり、これを小太郎の心情に重ねることもできる。(そもそも小太郎が茜のそばにいてコミュニケーションができればこんな演出は必要ないが、このアニメはそれが出来ない不器用さこそが重要なテーマなのだ。今度の成長に期待!)
写実的・ドキュメンタリー的なこの作品の中で、時空間を超えた「想い」がドラマチックな光を放つ。その瞬間を、ひとつひとつ音楽の力でくっきりと浮き立たせる名演出である。
それに対してもうひとつの見せ場である5では、唯一小太郎と茜が同じ場所にいるときにBGMが流れている。というか、小太郎と茜が面と向かって会話する場面は3話でここが初めてである。また、小太郎が茜に向かって笑顔を見せるのは3話までで初めて。会えなくても相手のことを想っているシーンでBGMが使われてきた3話の最後で、今度は同じくBGMを流しながら、会って不器用ながらも会話しているというのは、これまでの積み重ねの結実が感じられる良い演出だと思う。