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『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』を見た

· 8 min read

3本の短編。OPのポノック♪ポノック♪が面白かったのと、3本目の『透明人間』が凄まじい名作だった。
セリフが多い作品ではないので全てを受け取れたとは思っていないし、自分の流した涙の理由も30%も言語化できていないと思う。それでも、だからこそ、この映画は見るべきだと言いたい。  『透明人間』が圧巻だった。

 透明人間は単に体が透明というギミックではなくて、誰からも見てもらえない、(社会から)浮いている人間の暗喩。社会で見ないふりをされている人間という意味で、様々なマイノリティが該当するだろう。障碍者、セクシャルマイノリティ、エイズなど具体例はいくらでも思いつく。消火器は体が浮かないための重りとして使われていたが、社会に溶け込んで生きることが重荷になることの表現だ。
彼は疎外され、それでも生きるために様々な苦労をしている(浮いてしまう体をなんとか地面に戻すシークエンス)。最後に斜面を転がり落ちる乳母車を見つけ、命がけの飛行の末に赤ちゃんを救ってみせる。泣いてしまう赤ちゃんに対して男はいないいないばあをする。赤ちゃんには男の顔が見えていて、それに応えて笑顔になったところで終了。ラストシーンで泣いてしまった。
赤ちゃんに男の顔が見えていたこと以上に、赤ちゃんに自分の顔が見えていると信じて(あるいは見えていないかもという疑念を忘れて)赤ちゃんにいないいないばあをする男に、猛烈に心を動かされた。この物語を真っ当に、社会的に「正しく」終わらせるならば、「赤ちゃんを救ってはじめて男は人に見てもらえる」という終わらせ方にはしない。ディズニーなら「透明だろうとなんだろうとみんな違いを認めあって生きていこう」となるはずだ。そういう意味で本作は社会的な苦難を提示ししつつ社会的な解決は提示していない。「死なないでほしい」「笑ってほしい」という個人と個人の関係によってこの作品が終わることは、上からの社会制度ではなく人間のプリミティブな感情、言うなれば「愛」こそが大事なんだと、そういう力強いメッセージだと私は受け取った。
もちろんアニメ映画なのでテーマやギミックが優れていればいいというものではない。背景が、作画が、そして中田ヤスタカの未来的でドライな音楽が、全てが結びついて奇跡のような密度の短編作品として完成されている。この記事を書くにあたって予告編を見直したら赤ちゃんが笑うラストカットが入っていて、あのカットの意味・重みはずっと作品を見てきてはじめてわかるものだという自信を感じた。

 『カニーニとカニーノ』はよくわからなかった。スーパーリアルな自然描写の習作?カニ人間とリアルカニが両方出てきたのはなんだったんだろう。自分をカニだと思いこんでいる一般人?母親も兄弟たちもいなくなったのは自然の厳しさの表現なのかと思ったらなんか生きてた。背景はすごかった。

 『サムライエッグ』は淡い手描き風の背景が3DCGのようにグリグリ動くのがすごかった。ダンス作画でキャラクターがグニャグニャしてて笑った。ストーリーはよくわからない。シャトルランの音階が音楽に変化していくのは面白かった。EDでクレジット眺めてたら横に野球少年たちの風呂の絵が出ていて危うく見逃すところだった。
アレルギーについて知らないのだが、頑張れば治るものなのか?生まれ持った病気のせいで日常生活に命の危険があるというのは僕には全く想像できない世界で、それを知れたのは人生経験と言えばそうかもしれないが、やりたかったのはそういう啓発ビデオのようなことなんだろうか。率直に言えば見ながらとてもつらい気持ちになったので娯楽ではないなと。恐怖や痛みを真摯に描く作品に価値がないというつもりはないが、それでもフィクションなら意味のわかる終わらせ方にしてほしかった。。
ママの関西弁とかダンス、シュンの野球、逆上がりができるようになったガールフレンドなど深読みするといろいろ仕込まれてそうな気がしたが、一度の視聴ではその辺りの意味はよくわからなかった。

あーそぼあそぼ!は『透明人間』の余韻に対してちょっと無神経な気がしないでもない。