思いつくまま追記します。
素晴らしかった。公開2週間前くらいからずっとそわそわしていたけど、期待に応える作品だった。
不勉強なもので『雲のむこう、約束の場所』『星を追う子ども』は見ていない。申し訳ない。
有用な視点を提示するというよりは自分の記録、感想の整理の意味合いが大きいので許してほしい。
『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』では隔絶というものが一つのテーマになっていたと思う。『ほしのこえ』では天文学スケールの圧倒的な距離とそれに伴うメールのタイムラグ。『秒速5センチメートル』では親の都合による転校だったり雪による電車の遅延だったり。前者は科学技術の限界に伴うものであり、その時代に生きる人間は誰も超えることができない。一方で後者は距離が遠いといっても日本国内レベルであり、単に貴樹と明里が子供だから簡単には会いに行けないだけである。隔絶のレベルが低下することでセカイ感は控えめになったが、だからこそ簡単に会いに行くことはできない二人の幼さが前面に出てくるし、弱い隔絶であっても意外にあっさりと関係が失われてしまうことの儚さを強調している。
これまでも新海監督は緻密な美術によって美しい「場所」を描いてきたが、『君の名は。』では上記2作からさらに進んで、場所というものが空間的隔絶を描くための道具にとどまらず、それ自体が愛すべきものとして描かれているのが印象的だった。隕石によって糸守は崩壊する。そしてその風景は永遠に失われる。瀧が糸守の風景を一心に描き、ラーメン屋の親父がその絵に心を動かされて彼に協力する。そしてエピローグでは瀧は風景を失われうるものとして捉え、だからこそ記憶に残る風景を生み出したいと述べて建設業界を目指している。場所というのは視覚・聴覚はもちろんのこと、ときには触覚や嗅覚を含んだ総合的な経験である。だから記録できない。写真で記録してもそれは視覚情報しか保存できない。新海監督は今回町一つ吹き飛ばすという荒業を使ったが、上の2つの「失われた場所」に関するシーンは、監督が場所を失うという災厄に真摯に向き合って描こうという意思を感じるものであった。視聴中は気づかなかったが、これは福島の原発の問題を意識したものかもしれないと、今思った。
作品全体の構成を振り返ってみると、それほどきれいに盛り上がりが設定されていたとは思わない。面白おかしく入れ替わりを描く第1部、飛騨へ旅して過去との入れ替わりを知る第2部。口噛み酒を飲んで過去と再接続する第3部、そしてエピローグ。第2部の糸守の事実を知るところが最大の驚きであり、そのあとはこれと言って意外な展開はなかった。瀧と三葉の恋愛という観点なら第3部の山頂での出会いは大きなシーンだけど、この二人の恋愛はそれほど大きなウェイトを占めていない。事実描写が少ない。入れ替わってお互いの人生を過ごすうちに自然と心が近づいて恋に発展するという流れは、その適当さこそが高校生の恋愛のリアリティだろうしそれでいいと思うが、やはり軽い。映像面ではここがクライマックスに設定されていたので、ここにあまり没入できなかったのは少し寂しかった。
瀧君の高校生活は自分と照らし合わせてみるとちょっと信じられないくらい洗練されているが、あれは東京の標準レベルなのだろうか。彼が通っていた高校がどういうところなのかという点も含めて気になる。
映像面の話をすると、『秒速5センチメートル』ほどのとがった美術があったわけでもなく、絵コンテは全体的に優しいつくりになっていて、熱狂的な新海ファンはこんなの新海誠じゃないってキレるんじゃないかと視聴中は思っていた。エピローグの部分では新海イズムが割と復活していたので、このパートをエピローグなんて呼ぶとマッドな新海ファンに怒られるかもしれないけど、それでもやっぱりこのパートは物語をソフトランディングさせるためのおまけでしかない。
ポスト駿ということで夏の全年齢向けオリジナル劇場大作には注目しているけど、正直言って『君の名は。』は『バケモノの子』を余裕で越えてる。だが『おおかみこどもの雨と雪』にはまだ及ばない。 それはやっぱり子供が生まれてから(標準的な形ではないが)独り立ちするまでという圧倒的に長い道のりを描き切った『おおかみこどもの雨と雪』にそう簡単に太刀打ちできないということ。
そういえば小説の『Another Side』は読んだほうがいい。この映画の説明不足の部分をうまく補っているので物足りなかった人も大満足な人ももう一息楽しめると思う。