※本記事内の画像は『バッテリー』より研究のために引用したものであり、それらの権利はアニメ「バッテリー」製作委員会 にあります。また、本記事内の楽譜は『いつかの自分』(作詞・作曲:小林武史・越野アンナ、編曲:小林武史、歌唱:anderlust)から研究のために筆者が採譜したものです。
『バッテリー』のOPのサビが結構好きなので細かく分析した。
1.曲について
1.1 前半
サビでボーカル以外に耳につくのはストリングスの装飾であった。
まずサビの1回目のボーカルとストリングスを楽譜に起こした。
特徴として
- ボーカルのメロディは拍子感が強い。赤くマークした音が拍に従っている音でありかなり多い。ドラムも四分打ちである。
- ボーカルは偶数小節目の1拍目に音がない(8小節目を除く)。奇数小節目と偶数小節目の間で八分音符(青)を入れて変化を持たせている。
ストリングスの特徴は
- 奇数小節目で伸ばし、偶数小節目で動く
- アウフタクトを持つ1小節目を除くと6・7小節目のみが小節の頭に音を持つ
ではボーカルの特徴とストリングスの特徴を合わせて考えてみたい。
拍に従って4分音符を打つボーカルの規則性が崩れて八分音符が現れるのが奇数小節目と偶数小節目の間である。ストリングスは2小節目と4小節目ではボーカルの動きを妨げないように小節の頭で音を鳴らさないようにして、その後にボーカルの八分音符の動きに応答するかのように八分音符の音型を提示する。
6小節目ではボーカルがメロディーの最高音であるE♭に到達することから、この8小節間の盛り上がりのピークはここであると考える。ストリングスは2小節目・4小節目とは違い、6小節目は小節の頭から八分音符を含む音型を提示する。ボーカルが休んでいるため、この音型はそれまでの2回よりも力強く聞こえる。
まとめると、4小節目まではボーカルが常に主導権を握りつつ、ストリングスが控え目に合いの手を入れている。5小節目からは主導権がボーカル→ストリングス→ボーカルと移り変わっている。
1.2 後半
次にサビの2回目(後半)を見てみる。
ボーカルは1回目と同じである。
ストリングスは1-4小節目と同様に9-12小節目でも小節の頭を避けてあくまで伴奏に徹しているが、伸ばしを基調とした前半とは対照的に八分音符のスタッカートになっている。伸ばしによる伴奏からスタッカートによる伴奏に変化させることで単調さを避けている。
私の感覚では伸ばしによる伴奏はボーカルの主観的時間を相対的に短縮させ、結果として長いフレーズを意識させる。逆に八分のスタッカートによる伴奏はひとつひとつの音を意識させる。
2.映像
2.1 カットごとの内容
- 海音寺・瑞垣・門脇・青波・沢口・東谷・吉貞の間でボールが回されていく
- 巧のランニングとそれに自転車でついていく豪(推測)
- 瑞垣
- 瑞垣
- 豪
- 豪
- 門脇
- 門脇
- 巧
- 巧
- 豪のミット
- 豪と巧
- 巧
2.2 曲と映像のマッチング
C1とC2はそれぞれ4小節が当てられている。C1はそれまでの静的な映像とうって変わって激しい動きのあるカットで、たくさんのキャラクターが登場する。
楽しいだけではない複雑な思いで野球に取り組む3年生の3人が最初に登場し、続いて才能も体力もないが純粋に野球を楽しむ青波が全力でボールを投げる。そしてそのボールが1年生たちの上を飛んでいく。巧と豪以外の主要人物の立ち位置をたった1カットで表現する力技である。
1つのボールの動きを軸にして複雑なカットの内容が強く統合されていることは、曲においてメロディーが強い主導権を持っていることと対応している。
C2は曲のリズムに合わせて走る巧をフォローで撮ったカットである。盛りだくさんなC1の後だからこそ、静的なこのカットは巧と豪の二人だけの特別な世界をよく表現している。
対等なボーカルとストリングスの間でメロディーがリレーされる曲の構造は、バッテリーを組む二人を映すというカットの内容と対応している。
サビの前半8小節間は長いカットが2つあるのみである。これは伸ばしによる伴奏が視聴者の注意を複数の音のまとまりに向けさせることと対応している。
一方9-12小節目はほぼ1小節に2カットが割り当てられ、素早くカットが切り替わっていく。これはリズミカルな伴奏によって視聴者の注意がボーカルの一つ一つの音に向けさせられたことと対応している。
C3からC10では4人の主要人物が2カットずつ使って紹介される。瑞垣と豪、門脇と巧を対応付けるような順番で並べられているのは今後の展開を示唆している。また、アニメのお約束である左右の切り替えしをうまく絡めて横手中の2人が下手、新田東中の2人が上手にまとめられている(私は上手下手に絶対的な意味を付与することには反対である)。
C11からC13はこのアニメの最も象徴的なシーンである。広いグラウンドでユニフォームを着て対峙しているにも関わらず、周りに他の人間は一切いない。これは巧が投げ、豪が受けるシンプルな関係(=『バッテリー』)こそがこの作品の核であることを端的に表現している。
さらに巧が結局投球をしないままホワイトアウトして終わるのも趣深い。それはこの作品が野球の面白みというよりは、むしろ野球を愛し野球に翻弄されながら成長する少年たちを描くものであると印象付けている。