ザルードに育てられた人間の少年ココの話。前半はココがサトシと出会い、自分が人間と分かって育ての親のザルードとなんやかんやある。後半は両親の仇である科学者が貴重なエネルギー(?)を求めてザルードの森に攻めてくるのを撃退する。
ストーリーの話
ザルード社会学
とうちゃんザルード(パンフレットによるとこれが正式名称らしい)がココを拾い、それによって群れから追い出される流れが興味深い。
長老の意図
掟に反して人間の子供を連れ帰ったとうちゃんザルードに対して長老ザルードは「で、どうする?」と問いかける(記憶に頼っているので文言は若干違うかもしれない)。掟の意義を説くわけでもなければとうちゃんザルードを責めるわけでもないのが意外だった。実際リーダーザルードは「長老はお前(とうちゃんザルード)に甘い」と言っている。
もしかすると長老は群れや掟のあり方に変化が必要と考え、ココの出現もその予兆として静観しようとしたのかもしれない。
とうちゃんザルードの社会的ポジション
本編で詳しく描かれることはなかったが、ザルードの群れの人間(?)関係を考察したくなる。
長老は実際とうちゃんザルードに目をかけているのだろう。それは後にココがとうちゃんザルードのもとを離れたときに1人で会いに来ていることからもわかる。
また、リーダーザルードはとうちゃんザルードが群れを去るときに「信頼していたのに」と言っており、良い仲だったことが伺える。そもそもとうちゃんザルードは、ザルードの中でも限られた個体しか使えない森の力を借りる能力を持っている。とうちゃんザルード、何者?
ホモソーシャル
さらに気になる事実として、ザルードの群れにはオス(っぽい声・外見の個体)しかいない。幻のポケモンだから繁殖はしないのかなと思いきやとうちゃんザルードが「俺も両親がいない」というようなことを言っていたので、少なくとも親という概念は存在しているようだ1。謎。
実質『バケモノの子』
テレビシリーズの総監督であり、生物学を専攻した冨安大貴ならこの群れのあり方にも何らかの生物学的な意図を持たせるのだろうが、本作の監督は矢嶋哲生だ。彼はパンフレットの挨拶の冒頭で「僕には息子と娘がいます」と述べ、親としての体験がこの映画の原点であると言明している。堂々と自分の人生経験をアニメ化したと宣言する態度は『バケモノの子』の細田守と似ている。異種族の父親に育てられた少年という題材が同じなので類似点は多い2のだが、どちらも育ての親の周りから異性が排除されてホモソーシャル化している点が特に気になる。
とうちゃんザルードと熊徹の共通点を整理する。
- 腕力の強さで男たちに認められている
- 異性との関わりがない
- 集団のルールを破るが、指導者には気に入られている
- 孤児である
なんとなくこのような描写が重なる理由はわかる。腕っぷしが強く、女癖が悪くない。ルールよりも己の信念に従って行動し、偉い人に認められる。それが理想の父親なのだろう。孤児設定は、子育てのやり方がわからず自分で努力する様子を見せたいからか。
「人間とポケモンの共生」
ゼッド博士の描写に踏み込めない理由
後半はわかりやすい悪役であるゼッド博士が登場する。ココの両親の仇で、ジャングルを破壊して神木の力を利用しようとする。彼の悪役としてのキャラクターにイマイチ立体感がないのはそこまでして神木の力を手に入れて何がしたいか語られないからだろう。たとえば病気の家族を治したいというようなバックストーリーが用意されればもっとドラマに深みが出ただろうが、そうすると今度は神木の力を独占しているザルードたちが悪者になりかねない。
そもそも研究のためにポケモンの生息域を破壊していいかという判断が、研究所の所長の方針程度で決まるわけがない。ずっと昔からポケモンがいる世界なんだから当然そういうことは議論しつくされていて指針が定められていなければおかしい。だが、人間とポケモンの共生関係というのは曖昧に誤魔化されているものであって、ゲームの捕獲・戦闘というシステムを残しながら3POKEMONが世界的コンテンツであり続けるためには、これからも誤魔化され続けなければならない。ポケモンの関連作品を見る度に文句を言っているポイントだし、今回も言わせてもらった。
ザルードたちの反省と掟の歌の意味
ザルードたちはジャングルの他のポケモンたちを抑圧していた。具体的には神木の癒やしの力を独占し、テリトリーの外の食べ物を奪っている。だからジャングルのポケモンたちとザルードたちの仲は悪い。しかしゼッドの襲撃に対抗するためにとうちゃんザルードがジャングルのポケモンたちの力を借りることで、これが本来の姿だったと気づき和解している。
正直この辺りの流れはよくわかっていない。ザルードたちに伝わる歌の本当の意味とかどうでもいいし、外敵に対抗するために一致団結するなどという当たり前の出来事を見せられても何が言いたいのかわからなかった。
ココのこれから
ココは父を強く想うことでザルードにしか使えないはずの森の力を借りる技を発動し、とうちゃんザルードを回復させる。詳しい説明はないがここはセレビィが力を貸したのだと解釈している。その功績とザルードたちの考え方の変化により、ココは改めてザルードの群れに受け入れられる。なんか勢いで丸く収まったように見えるが、ココが人間と接触し、それによって神木の場所がバレたということをザルードたちは知らないはずだ。もしそれがバレた場合、やはりココは人間だとみなされて排除されるのではないかと思った。
最後にココは人間でもありポケモンでもあるという立場を活かして両者の架け橋になるべく旅に出る。ココは人間の言葉をほぼ喋れないのでなにを無茶なことを言っているんだと思ったが、父子の物語を終わらせるためには親離れのシーンは必要だったのかな。親子の関係は長く続き子は成長して親は衰えるものだが、親が一番カッコいい瞬間を描いて子の成長を予感させて終わるというのが「ちょうどよかった」のだろう。
テクニックの話
作画
全体的にレベルが高かった。
アクションではポケモンが得意とするCG背動が活用された。前半は木を伝ってココが移動するシーンが多く、どこも妥協なくよく動いていた。ゼッドとの戦いでジャングルのポケモンたちがピカチュウをリレーしながら敵の急所に送り込むシーンは、アクションがストーリーを表現していて、アクションはこうあるべきだなと感動した。
芝居ではココのパートナーポジションで登場するホシガリスがよく動いていた。ポケモンが可愛らしくよく動くというのはポケモン映像作品の大事なアピールポイントだし、言葉を話せないポケモンが(これ自体も本作の重要なポイント)何を考えているかを動きで表現するというのはアニメーションだからこそできることであって、正しい場所で頑張っていたと思う。
ピカチュウ作画監督として一石小百合がクレジットされている。面白い役職だ。
脚本
言語の扱い
脚本のテクニックについて話すことはあまりないのだが、本作では結構面倒なことをやっているので言及しておく。
というのは、ココが話すザルード語がシーンによって日本語で演じられたり、「ザ」「ル」「ド」の3音だけで演じられたりするのだ。ココとポケモンだけが登場するシーンでは日本語で演じられるが、ザルード語話者と人間が登場するシーンでは日本語だったりザルド言語体系だったりする。基本的にココは人間の言葉を理解しないし、人間はザルード語を理解しない。フィクションなのでお互いに超エスパー能力を発揮してなんとなくコミュニケーションが成立している。
最初はピカチュウが通訳に入るのだが、ピカチュウがサトシの名前を伝えるのに「ピカピ」と言っているのが冷静に考えるとめちゃくちゃで笑ってしまった。ピカチュウの発声器官は「ピ」「カ」「チュウ」の3音しか発声できないのだろうが、だからといって「サトシ」が「ピカピ」になるのはなんでだよ!!ってなるでしょ。
ココは10歳まで人間の言葉を一切聞かずに育っているが、人間の言葉を覚えられるのか気になる。人間の発声器官を持っているのだから第二言語レベルにはなるのだろうか。
父親だから・息子だから
中盤以降とうちゃんザルードとココが頻繁に「父親だから」「息子だから」と言っていて聞くたびにむず痒くなってしまった。そういうことを表現したいアニメだったのだろうが、表現したいことをそのままセリフにしすぎだろうというのと、そもそも現実の父子でそういうことを恥ずかしがらずに言うものだろうかという2つの引っ掛かりがあった。前者については対象年齢を考えれが仕方ない面もあるだろうが。
矢嶋監督は10年後に息子に恥ずかしがらずにこの映画を見せられるんだろうか。というのは意地悪な問いで、逆に今の矢嶋監督(息子は何歳か知らないが)はこういう映画を作れるということのほうが大事だろう。
冒頭でサトシが母親との電話を面倒がって逃げ出してしまうのだが、ラストでは自分から母親に電話をかけるという対比がある。わかりやすいが、親の願望がダダ漏れだ。
クライマックスで集合してない
原則的にクライマックスシーンでは全部のキャラが一堂に会しているのが望ましいのだが、本作ではゼッドとの戦いで負傷したとうちゃんザルードをココが癒やしの泉に連れて行くところで舞台が2つに分かれてしまう。バトルのクライマックスとココの癒やしの力発動はどちらもそれぞれ盛り上がりではあるのだが、2つが特に相互作用もせずに同時並行している脚本はシーン切り替えで没入感を削ぐだけであまり上手くないと思った。バトルを終わらせてから癒やしでもよかっただろう。
セレビィ
セレビィ、チョイ役くらいの出番しかないのに宣伝での扱いが良い。人気ポケモンなのだろうか。
テレビアニメだと『ポケットモンスター』32話『セレビィ 時を超えた約束』に登場している。映画とタイミングを合わせていたのかなと思ったが、そうでもないっぽい。
演技
ココ
専業声優ではない女性が少年役を演じると上手くいかないことが多いのだが、上白石萌歌はかなり専業声優っぽい発声になっていた。抑揚がちょっと大きめで独特の魅力があった。クライマックスの叫びが長く続くシーンだけはちょっと引き出しの不足を感じてしまった。
とうちゃんザルード
演技力の面では全く問題なかったが、リーダーザルード(CV.津田健次郎)と声が似ていて、会話シーンでどちらの発言かわからないことがあった。