他の人を意見を聞く前に、自分の考えを形として残しておきたかったので急いで書いた。勘違いとかあっても許して。以下ネタバレがある。
未来のミライですが、ストーリーがきちんと構築されているかといえば、されていない。最も重要なセリフ「くんちゃんはミライちゃんのおにいちゃんっ!!!!」が出てきた理由がよくわからなかったし、過去の偶然の積み重ねがなければ自分たちが生まれていなかったというのも正直大したメッセージとは思えない。
それでも、僕はこの映画を傑作だと思う。それはこの映画が光と闇の細田守の融合によってひとつの境地に達した作品であって、それによって子供の心に深いトラウマを残す作品になっているからだ。
『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』を通して細田守は変態少年愛者ではあったが、それなりに整った話を書いていた。つまり、今のシーンは前のシーンの影響を受けており、次のシーンに影響を及ぼすという単線的で焦点が理解しやすいストーリーラインを持っていた(『ウォーゲーム』『サマーウォーズ』では複線並行進行という感じもあるが)。
一方で『未来のミライ』の構成は以下のとおりだ。
- プロローグ
- ゆっこの章
- 未来のミライの章
- おかあさんの章
- ひいおじいさんの章
- 自分自身の章
- エピローグ
章を通したキャラクターの成長という要素は弱く、オムニバス的な構成になっている。単線ではなく放射状のイメージ。各章で違ったテイストの物語が繰り広げられるのが面白い。
7/21 12:19追記
【インタビュー】企画段階から「無謀」と言われた、それでも――細田 守が4歳児を主人公に選んだ理由
今まではそれぞれの話が並行して進むという作りをしてきましたが、今回は、ペットの犬、ミライちゃん、おかあさん、おとうさん、そして、くんちゃんの話と5本立てになっています。映画の脚本の基本である三幕構成からはみ出して、家族を一巡して描いていく中で、くんちゃんがどんどん変化していく様を見せられたらいいな、と。最後に自分の話に立ち返るところが、ひとつのポイントではないかと思います。
1章はいろいろ説明。くんちゃんが模型電車で壮大な街を作り上げているのは父の建築家としてのセンスを受け継いでいることの表現だろうか。『バケモノの子』で細田は父親が息子に刻印を残すことにこだわっていたので。
2章はオムニバスの最初のエピソードで、視聴者の中のリアリティレベルを破壊する役割を持つ。犬が人間になって急に喋るし、かと思ったらくんちゃんはそのしっぽを引っこ抜いて自分に差し込み、犬になって家の中を走り回る。爽快なアクションが楽しい。
3章は真面目な未来のミライとコメディリリーフであるゆっこ(人)、そして最も幼いが唯一父親とコミュニケーションできるくんちゃんという凸凹3人組のギャグパート。3人の中で一番しっかりしている未来のミライですらその目的は「結婚のチャンスを逃さないように早くお雛様を片付ける」というギャグ。未来のミライちゃんがくんちゃんに歪んだ性癖を植え付ける。
4章はおかあさんの過去。現実世界では最もくんちゃんに厳しいのがおかあさんだが、この章では大人が登場せず、子供だけの世界にすることで誰にも束縛されない素顔のおかあさんを描いている。雨が降っているのは室内遊びの妥当性を高めている…のかな?もっと他の説明ができそうなんだけど。ここでくんちゃんが手紙を靴の中に入れるメソッドを学習し、5章ではそれによって念願の自転車を手に入れている。
5章は父性・ホモソーシャル。テーマ的にはバケモノの子の前半部の再演とも言える。ひいおじいさんは少し強引に、ある意味では強権的にくんちゃんに新しい経験を与え、進歩させる。そして自転車に乗れるようになったくんちゃんは同性の遊びグループに迎え入れられる。「おとうさんは知らない女の人と楽しげに話しています」という恨みがましい文言がご丁寧にパンフレットに書いてあるのも、異性を排除したホモソーシャルへの憧れの表現だろうか。
そして6章は細田の壮絶な闇が吹き出す。この異常なテンションに僕は中てられてしまった。一人で家出したくんちゃんが遺失物係と問答し「ひとりぼっちの国」行きを宣告される。未来東京駅や遺失物係の異様なデザインはそれまでの世界観とは全く違う厳格で残酷なルールの存在を想起させる。異常な世界のなかで無力な子供が翻弄される不安感はきっと見ている子供たちに強烈なトラウマを残すだろうし、そういう作品を、そういうワンシーンを作って爪痕を残してやるという細田守の意欲を(勝手に)感じて僕は圧倒された。
7章エピローグでは白背景オレンジトレスのおなじみ細田空間でくんちゃんと未来のミライちゃんがこれまでの総決算のようにいろいろな世界を見ながら、過去の偶然の積み重ねでいま私達が生きているというような話をする。だがそれはどうでもよくて、4章でおかあさんが猫を飼いたがっていたにもかかわらず、その後猫にツバメ(そういえばこの世界の道案内をする鳥はツバメだし、くんちゃんが最初にミライにつけようとした名前もツバメ)の赤ちゃんを殺されて猫が苦手になってしまったという強烈なエピソードがある。特に意味もない後味が悪いだけのエピソードをここにくっつけることで物語にどういう効果があったのか僕にはよくわからないが、絶対気持ちの良いだけの物語にはしないぞという細田守の決意がここから感じ取れて感動した。ひいおじいさんが必死で泳いだ話は気持ちよくはないけどそのおかげで今のくんちゃんたちが生まれたという意味付けができてしまうが、おかあさんの猫の話はそういう意味がない。それがいい。
総括すると、細田守はこの映画でつじづま合わせやきれいなオチ、美しいメッセージなど商業的・社会的な要請は二の次にして、とりあえず描きたいものを全部乗せした。そして6章ではストーリー上の妥当性を超越した演出のセンスで理不尽な恐怖を描いて視聴者トラウマを残すようなシーンを生み出した。構成のまずさは瞬間火力で凌駕すればいいのだ。映像演出の専門家が最大限に強みを活かすためには、むしろ丁寧な脚本なんて邪魔なのかもしれないとまで思わされた。一本で数十億を稼ぎだす超売れっ子映画監督になったこのタイミングで、細田守が細田守として復活した。それが僕は嬉しい。
小ネタ
- 主題歌が最初と最後の両方に流れるのは良い。アーティスト名詐欺感が薄まる。
- 「家族の年齢を適当にシャッフルしてワイワイやりたかったから思いつく限りのシチュエーション試した」と言われても納得するし、それが楽しかった。現時点での細田守がこんな作風転換というかリアリティレベル変更ができるとは思っていなかった
- 妹の名前について4歳の兄に意見聞く?
- エピローグでおとうさんとおかあさんが車に荷物を積んでいって、それによって画面が狭くなっていき、2人の距離も接近していくという演出がよかった。結婚して時間がたって、物理的にも精神的にも背負うものが増えていって、それはしんどいことなんだけれども、気づいてみたらずっと一緒にいた…みたいな。理想の夫婦像?結婚に夢持ちすぎ?
- 幼稚園に行くシーンで唐突に現れたあのイケメン何?
- おかあさんやおとうさんの名前がわからないシーンはどういう含みがあったのだろう。親の視点からすると子供の世話に忙殺されて自分の時間を取れないことの象徴的表現になるだろうが、くんちゃんが両親の名前がわからないというのはどういう見方をすればいいのかわからない。単なる「ありそう」なネタ?
- 冒頭のアルバム写真風演出でおとうさんとおかあさんが巨大な本棚の手前で読書しているシーンで「あースノッブ!!!」と思ってしまった。悪い視聴者。
- 兄を性的に目覚めさせる妹、妹にバナナ食わせる兄
- おとうさんの過去ネタが少ない一方でくんちゃんがほとんど面識がないであろうひいおじいさんのネタに1章割かれていたのはなんだろうか。僕は「先祖は、たとえ自分と直接の関わりがないとしても、その人が欠けたら自分は存在しない」という極端な事例を加えて、7章のまとめを強化する意味があったと思う。
- パンフレット読んだら星野源が「後半の、子供が観たらトラウマになりそうな不気味さ」と言っていて、よくわかってるじゃん!!という気持ち。僕は子供にトラウマ残すというのはすごく大事だと思っていて、ナージャの細田回やアニマトリックスの大平作画はアニメオタクになる前に見たが強烈に印象に残っている。
- この家の構造とんでもないよね。子供が小さいうちは危険だし両親が老いたあとも危険。なおデザインしたのはマジモンの建築家で不便さはわざとだそうです。
- 手のアザの意味って本人確認だけ?
- PANしながらカットを割らずにキャラの位置を変えて時間経過を表現するやつ、今回はCGバージョンになって多用されてた
- パンフレットの衣装・伊賀大介さんのインタビューめっちゃ面白いので買って読んで
- 音楽は賑やかでありつつも主観的になりきらない抑制が効いていて不思議だった。逆に『おおかみこどもの雨と雪』は全編が雪の回想であり全てが主観で感情的、そして音楽もそういう風に作られていたのだと理解した。
- 川村元気はプロデューサークレジット4人中4番目なんだが何をどのくらいやったのか気になる