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· 4 min read

歩けないジョゼと、メキシコ留学を目指す大学生恒夫が偶然であっていい仲になっていく話。あんまり楽しくなかった。男女の心の機微みたいな話に興味がない。

出会いは偶然なんだけど海が好きという共通点から仲が深まっていく。恒夫のバイト仲間に嫉妬したり祖母が死んだり恒夫が交通事故に遭ったり、頑張ってあれこれ事件を起こしてなんとか物語を前に進めている(こうやって列挙してみると本当につまらないな…)。そもそもジョゼってなんでそんなに海好きなんだっけ?

2人で海にいくところがよかったな。車椅子で公共交通機関を使って海に行くことの難しさが伝わってきたし、「虎」の存在が具体化されていた。海についても海水を舐めることすら難しく、這って海に向かっていくところは迫力があった。やっぱりアニメーションは絵で表現してナンボだと思う。

その後は身体の障碍が心まで縮こまらせてしまう話をしていて、そんなに興味のないテーマだし、絵や動きとして面白いわけでもなくて、退屈だった。

終わり方

恒夫が退院するときにジョゼが来ない話は蛇足だと思った。約束すっぽかして何してたんだ、散歩か?出会いのシーンのリフレインをやりたいにしても話の運びが下手だろ。

ジョゼの絵本読み聞かせか、あるいは恒夫がジョゼに退院時に来てほしいと頼むシーンで終わりでよかった。特に後者はジョゼが恒夫に要求してばかりだった序盤との対比になるので。

舞の性欲

すごいよね。初登場シーンからいきなり性欲を全く隠さない演出で、作中ずっと恒夫への性欲で行動してた。

花菜さん有能

読書友達で、絵本づくりのアドバイスをしてくれて、図書館の読み聞かせのセッティングもしてくれるとか有能すぎる。やっぱり持つべきものは公務員の友達だな〜。

演出

恒夫がリハビリで歩けたシーン、足映さないんですね。

音楽

ジョゼが海で泳ぐイメージのシーンの音楽、なんか音程悪くなかった?

· 19 min read

ザルードに育てられた人間の少年ココの話。前半はココがサトシと出会い、自分が人間と分かって育ての親のザルードとなんやかんやある。後半は両親の仇である科学者が貴重なエネルギー(?)を求めてザルードの森に攻めてくるのを撃退する。

ストーリーの話

ザルード社会学

とうちゃんザルード(パンフレットによるとこれが正式名称らしい)がココを拾い、それによって群れから追い出される流れが興味深い。

長老の意図

掟に反して人間の子供を連れ帰ったとうちゃんザルードに対して長老ザルードは「で、どうする?」と問いかける(記憶に頼っているので文言は若干違うかもしれない)。掟の意義を説くわけでもなければとうちゃんザルードを責めるわけでもないのが意外だった。実際リーダーザルードは「長老はお前(とうちゃんザルード)に甘い」と言っている。

もしかすると長老は群れや掟のあり方に変化が必要と考え、ココの出現もその予兆として静観しようとしたのかもしれない。

とうちゃんザルードの社会的ポジション

本編で詳しく描かれることはなかったが、ザルードの群れの人間(?)関係を考察したくなる。

長老は実際とうちゃんザルードに目をかけているのだろう。それは後にココがとうちゃんザルードのもとを離れたときに1人で会いに来ていることからもわかる。

また、リーダーザルードはとうちゃんザルードが群れを去るときに「信頼していたのに」と言っており、良い仲だったことが伺える。そもそもとうちゃんザルードは、ザルードの中でも限られた個体しか使えない森の力を借りる能力を持っている。とうちゃんザルード、何者?

ホモソーシャル

さらに気になる事実として、ザルードの群れにはオス(っぽい声・外見の個体)しかいない。幻のポケモンだから繁殖はしないのかなと思いきやとうちゃんザルードが「俺も両親がいない」というようなことを言っていたので、少なくとも親という概念は存在しているようだ1。謎。

実質『バケモノの子』

テレビシリーズの総監督であり、生物学を専攻した冨安大貴ならこの群れのあり方にも何らかの生物学的な意図を持たせるのだろうが、本作の監督は矢嶋哲生だ。彼はパンフレットの挨拶の冒頭で「僕には息子と娘がいます」と述べ、親としての体験がこの映画の原点であると言明している。堂々と自分の人生経験をアニメ化したと宣言する態度は『バケモノの子』の細田守と似ている。異種族の父親に育てられた少年という題材が同じなので類似点は多い2のだが、どちらも育ての親の周りから異性が排除されてホモソーシャル化している点が特に気になる。

とうちゃんザルードと熊徹の共通点を整理する。

  • 腕力の強さで男たちに認められている
  • 異性との関わりがない
  • 集団のルールを破るが、指導者には気に入られている
  • 孤児である

なんとなくこのような描写が重なる理由はわかる。腕っぷしが強く、女癖が悪くない。ルールよりも己の信念に従って行動し、偉い人に認められる。それが理想の父親なのだろう。孤児設定は、子育てのやり方がわからず自分で努力する様子を見せたいからか。

「人間とポケモンの共生」

ゼッド博士の描写に踏み込めない理由

後半はわかりやすい悪役であるゼッド博士が登場する。ココの両親の仇で、ジャングルを破壊して神木の力を利用しようとする。彼の悪役としてのキャラクターにイマイチ立体感がないのはそこまでして神木の力を手に入れて何がしたいか語られないからだろう。たとえば病気の家族を治したいというようなバックストーリーが用意されればもっとドラマに深みが出ただろうが、そうすると今度は神木の力を独占しているザルードたちが悪者になりかねない。

そもそも研究のためにポケモンの生息域を破壊していいかという判断が、研究所の所長の方針程度で決まるわけがない。ずっと昔からポケモンがいる世界なんだから当然そういうことは議論しつくされていて指針が定められていなければおかしい。だが、人間とポケモンの共生関係というのは曖昧に誤魔化されているものであって、ゲームの捕獲・戦闘というシステムを残しながら3POKEMONが世界的コンテンツであり続けるためには、これからも誤魔化され続けなければならない。ポケモンの関連作品を見る度に文句を言っているポイントだし、今回も言わせてもらった。

ザルードたちの反省と掟の歌の意味

ザルードたちはジャングルの他のポケモンたちを抑圧していた。具体的には神木の癒やしの力を独占し、テリトリーの外の食べ物を奪っている。だからジャングルのポケモンたちとザルードたちの仲は悪い。しかしゼッドの襲撃に対抗するためにとうちゃんザルードがジャングルのポケモンたちの力を借りることで、これが本来の姿だったと気づき和解している。

正直この辺りの流れはよくわかっていない。ザルードたちに伝わる歌の本当の意味とかどうでもいいし、外敵に対抗するために一致団結するなどという当たり前の出来事を見せられても何が言いたいのかわからなかった。

ココのこれから

ココは父を強く想うことでザルードにしか使えないはずの森の力を借りる技を発動し、とうちゃんザルードを回復させる。詳しい説明はないがここはセレビィが力を貸したのだと解釈している。その功績とザルードたちの考え方の変化により、ココは改めてザルードの群れに受け入れられる。なんか勢いで丸く収まったように見えるが、ココが人間と接触し、それによって神木の場所がバレたということをザルードたちは知らないはずだ。もしそれがバレた場合、やはりココは人間だとみなされて排除されるのではないかと思った。

最後にココは人間でもありポケモンでもあるという立場を活かして両者の架け橋になるべく旅に出る。ココは人間の言葉をほぼ喋れないのでなにを無茶なことを言っているんだと思ったが、父子の物語を終わらせるためには親離れのシーンは必要だったのかな。親子の関係は長く続き子は成長して親は衰えるものだが、親が一番カッコいい瞬間を描いて子の成長を予感させて終わるというのが「ちょうどよかった」のだろう。

テクニックの話

作画

全体的にレベルが高かった。

アクションではポケモンが得意とするCG背動が活用された。前半は木を伝ってココが移動するシーンが多く、どこも妥協なくよく動いていた。ゼッドとの戦いでジャングルのポケモンたちがピカチュウをリレーしながら敵の急所に送り込むシーンは、アクションがストーリーを表現していて、アクションはこうあるべきだなと感動した。

芝居ではココのパートナーポジションで登場するホシガリスがよく動いていた。ポケモンが可愛らしくよく動くというのはポケモン映像作品の大事なアピールポイントだし、言葉を話せないポケモンが(これ自体も本作の重要なポイント)何を考えているかを動きで表現するというのはアニメーションだからこそできることであって、正しい場所で頑張っていたと思う。

ピカチュウ作画監督として一石小百合がクレジットされている。面白い役職だ。

脚本

言語の扱い

脚本のテクニックについて話すことはあまりないのだが、本作では結構面倒なことをやっているので言及しておく。

というのは、ココが話すザルード語がシーンによって日本語で演じられたり、「ザ」「ル」「ド」の3音だけで演じられたりするのだ。ココとポケモンだけが登場するシーンでは日本語で演じられるが、ザルード語話者と人間が登場するシーンでは日本語だったりザルド言語体系だったりする。基本的にココは人間の言葉を理解しないし、人間はザルード語を理解しない。フィクションなのでお互いに超エスパー能力を発揮してなんとなくコミュニケーションが成立している。

最初はピカチュウが通訳に入るのだが、ピカチュウがサトシの名前を伝えるのに「ピカピ」と言っているのが冷静に考えるとめちゃくちゃで笑ってしまった。ピカチュウの発声器官は「ピ」「カ」「チュウ」の3音しか発声できないのだろうが、だからといって「サトシ」が「ピカピ」になるのはなんでだよ!!ってなるでしょ。

ココは10歳まで人間の言葉を一切聞かずに育っているが、人間の言葉を覚えられるのか気になる。人間の発声器官を持っているのだから第二言語レベルにはなるのだろうか。

父親だから・息子だから

中盤以降とうちゃんザルードとココが頻繁に「父親だから」「息子だから」と言っていて聞くたびにむず痒くなってしまった。そういうことを表現したいアニメだったのだろうが、表現したいことをそのままセリフにしすぎだろうというのと、そもそも現実の父子でそういうことを恥ずかしがらずに言うものだろうかという2つの引っ掛かりがあった。前者については対象年齢を考えれが仕方ない面もあるだろうが。

矢嶋監督は10年後に息子に恥ずかしがらずにこの映画を見せられるんだろうか。というのは意地悪な問いで、逆に今の矢嶋監督(息子は何歳か知らないが)はこういう映画を作れるということのほうが大事だろう。

冒頭でサトシが母親との電話を面倒がって逃げ出してしまうのだが、ラストでは自分から母親に電話をかけるという対比がある。わかりやすいが、親の願望がダダ漏れだ。

クライマックスで集合してない

原則的にクライマックスシーンでは全部のキャラが一堂に会しているのが望ましいのだが、本作ではゼッドとの戦いで負傷したとうちゃんザルードをココが癒やしの泉に連れて行くところで舞台が2つに分かれてしまう。バトルのクライマックスとココの癒やしの力発動はどちらもそれぞれ盛り上がりではあるのだが、2つが特に相互作用もせずに同時並行している脚本はシーン切り替えで没入感を削ぐだけであまり上手くないと思った。バトルを終わらせてから癒やしでもよかっただろう。

セレビィ

セレビィ、チョイ役くらいの出番しかないのに宣伝での扱いが良い。人気ポケモンなのだろうか。

テレビアニメだと『ポケットモンスター』32話『セレビィ 時を超えた約束』に登場している。映画とタイミングを合わせていたのかなと思ったが、そうでもないっぽい。

演技

ココ

専業声優ではない女性が少年役を演じると上手くいかないことが多いのだが、上白石萌歌はかなり専業声優っぽい発声になっていた。抑揚がちょっと大きめで独特の魅力があった。クライマックスの叫びが長く続くシーンだけはちょっと引き出しの不足を感じてしまった。

とうちゃんザルード

演技力の面では全く問題なかったが、リーダーザルード(CV.津田健次郎)と声が似ていて、会話シーンでどちらの発言かわからないことがあった。              


  1. ついでに「長老」という概念も存在するので老化や死、世代交代も存在するのだろう
  2. たとえば、ココがザルードの能力である体からツタを生やす能力が発現しなり理由をとうちゃんザルードに問うシーンは一郎彦が猪王山に牙が生えないことを相談するシーンと全く同じだ
  3. 今作でもサトシはジャングルに踏み込んで野生のウッウに先に攻撃を仕掛け、捕獲しようとしている

· 4 min read

去年字幕版を見ていたので視聴は2回目。前回は中国人で満員でギャグシーンへの反応がよかったが、今回は日本人がまばらにいるだけでギャグへの反応は弱く、視聴体験としてはイマイチだった。

映像のクオリティに関しても去年の記憶が美化されすぎて期待ほどではなかった。1年間で映像の平均レベルが向上し、撮影の薄さが物足りなく感じるようになったというのもあるかもしれない。作画がいいと思うのはギャグや芝居のシーンであって、アクションの作画は速すぎてよく見えなかった。スーパーパワーの衝突ですごいことが起きているのを表現したいのであって、別にカッコいい絵を見せたいわけではない絵コンテだったと思う。

ストーリーに関して、少数民族の同化政策を肯定する内容だという意見がある。僕もそう思っていたが、改めて見ると単純な肯定ではない。故郷を追われたフーシーの主張をたっぷりと喋らせ、イメージ映像まで載せているわけで、傷つく人間がたしかに存在しているということを真面目に描いていると思う。最終的にはシャオヘイがフーシーに勝つわけだが、フーシーが悪だったかという問いには作品としてはっきりと「明言しない」という態度を取っている。なお、去年見たときは中国当局のチェック済みのロゴが載っていたが、今回はなかった。

シャオへイはフーシーとムゲンの間で揺れ動くが、最後にはムゲンを選ぶ。だがフーシーの故郷への思い、妖精としての感情を否定したわけではない。フーシーは理想に拘泥してシャオヘイを犠牲にしたが、ムゲンは「シャオヘイには私しかいない」と言ってシャオヘイを想って行動し続けた結果だ。

去年に比べて私自身の人生に変化があり、「どこで生きるか」「誰とともに生きるか」ということをよく考えた。このアニメもまさにそういう話であって、まさに時宜を得たアニメ視聴で満足度が高かった。

· 10 min read

はじめに

一度目の鑑賞では話の筋がよくわからずちんぷんかんぷんだったが、その後同行者と議論し、原作を読み、ブログにまとめて一週間考えてもう一度見に行ったらだいぶすんなりわかったし、細かい演出まで味わうことができた。BDが売られたらもっと見て研究したい。

Episode1 えっちゃんとあやさん

音響の良さが光っていたエピソード(音響まで気にする集中力が保てていたのが最初の一本だけと言う可能性もある)。あやさんがえっちゃんに手を出すところでBGMが入ってアガる感じなのが面白い。あやさんがえっちゃんの家に来てセックスするシーンでは下校する子供の声が聞こえ、セックスの後には子どもたちの姿も遠景で映る。子供が楽しそうに歩くのと同じ世界で2人はセックスをしているという演出。セックスを特別扱いしない姿勢は志村貴子の原作に忠実であり、それをアニメとしてより強力に表現している。

互いの家のシーンが始まるまえに街の情景を映す止め絵の風景カットが入る演出もよい。2人がそれぞれどんな土地に居を構え生活しているかを具体的にイメージさせ、そこらの街で実際に起きてそうな印象を与える。

音を足してみたり、風景を足してみたり、足し算によって逆に作品の温度を下げて「本当にありそう」感を出していくのはアニメならではの面白いアプローチだと思った。

Episode2 澤先生と矢ヶ崎くん

話は相変わらず難しい。澤先生の「他に好きな男が…」というセリフだけがヒントで、矢ヶ崎くんとの関係はおそらく1年以内に終わっている。それ以外は1回目視聴時の解釈でだいたい正しそう。ストーリーの含蓄というか奥深さでは一番だろう。

澤先生が田辺家で眠るときにギシギシという効果音が鳴っていたので、姉が踊っていたというのは直球でセックスしていたという意味でよさそう。

Episode3 しんちゃんと小夜子

前回の感想で繊細に描かれる人と人との繋がり「どうにかなる日々」感想という記事を紹介した。この観点で見ると、しんちゃんの子供部屋が密室となるべく設定されていることに気づいた。

しんちゃんの部屋にはエアコンがあり、夏なので冷房を効かせるために窓もドアも閉めている。そしてテレビもビデオデッキもあるからビデオ試聴会も子供だけの密室で行える。そんな密室の内側にもう一段階押入れという密室があり、その中から小夜子が見ているという構造が面白い。小夜子は密室の内側に入れる人間なのだ。それは(両親が小夜子を信頼しているというのもあるだろうが)小夜子がしんちゃんに勉強を教えたり恋愛を指南したりする、どちらかというと子供側の存在だからだ。

しかし一方で、小夜子はAV女優でもある。それは完全に大人の職業だ。だからみかちゃんが持参した「チェリー」をパクリと食べてしまう。いとこであり同じ部屋で生活する小夜子が、同時に大人であり性的に成熟した存在でもある。そんな倒錯した状況でしんちゃんの感覚が狂わされるのがEp3の主眼だ。

小夜子が去って季節が秋になると虫の声はセミからコオロギに変わり、しんちゃんは密室だった子供部屋の窓を開ける。それは小夜子がいた夏がもう終わってしまったことを意味する。

他に気になった点としては、しんちゃんが押し入れに入るときに1回目は下段(小夜子が寝ている方)で2回目は上段だったこと。絵コンテにもはっきりと指定があり意図的な演出なのだが、どういう意図かな。1回目は風呂で小夜子のイメージに悩まされて冷静さを失っていたので間違って小夜子の方に入ってしまったということ?

Episode4 みかちゃんとしんちゃん

3年後も小夜子の幻影に悩まされる2人をみかちゃんの側から描いたエピソード。みかちゃんが小夜子に縛られているのは小夜子のビデオを見ていることから明らかだが、しんちゃんもそうだと思う。というのはみかちゃんが背中から体を押し付けたときのしんちゃんの反応は小夜子に胸を押し付けられたときのことを思い出してそうだったからだ。そこでしんちゃんは小夜子の胸の大きさを思い出したからみかちゃんの胸を揉んだのではないだろうか(そしてみかちゃんは偶然か女の勘か、しんちゃんが小夜子を忘れていないことに気づいている)。

だからEp4を単にSideみかちゃんと見るのは正しくないような気がしている。Ep4のしんちゃんの内心が表現されたシーンに、しんちゃんがみかちゃんに(雨の音を楽しんでいる)自分に酔っているだけじゃないかと意地悪を言うシーンがある。これはしんちゃん自身に心当たりがあったりするのだろうか。

なおこのシーンの舞台の横断歩道はEp3にも出てくる。右側に水たまりがあり歩けない。Ep3だと右側に立つのはしんちゃんだが、Ep4だとみかちゃん。

みかちゃんの「前日のほうが好き」という発言も興味深い。思春期の恋愛のセックス未満の話を描いている作者自身の話だろうか。

3週目の劇場特典マンガを読むと、Ep4終了時はまだセックスしてないらしい。へぇ〜。胸を触らせたししんちゃんを想って自慰もしており、小夜子の幻影も乗り越えられたのにその後しばらくプラトニックで続くというのは意外だ。むしろEp4のみかちゃんが勇み足だで、小夜子のプレッシャーがなければ焦る必要はないということか。

おわりに

たくさん努力して頑張って視聴すると面白いんだけど、やっぱり初見の爽快感とかもないと商業的には成功しにくいだろうなあ。

· 13 min read

はじめに

一言でいうとよくわからなかった。というのはキャラクターの暗黙の行動原理や思考、性に対する考え方が見ながらリアルタイムで補完できなかったからだ。志村貴子の世界観が僕の人生経験と違いすぎる。

Episode1 えっちゃんとあやさん

4つの中では一番理解できたエピソード。えっちゃんとあやさんがあまりにも簡単に性的な関係になった展開は疑問、というか納得できなかった。

2人は互いに面識もなかったのに、同じ女性を好きだったというだけでいきなりセックスする。そういう恋愛もあるのかもしれないが「なにもしない」と言って自宅に連れ込んで、えっちゃんが酒に酔っている(当然判断力も低下している)のをいいことに胸を触り、性行為に至るというのはレイプに近い行為なのではと感じてしまった。

そもそもにそこに至る描写があっさりしすぎていて、同性愛者は常に相手に飢えていて、丁度いい相手なら誰とでも関係を持ちたがるという観念のもとに描かれているのかなとも思った(志村貴子の世界ではセックスとは常にこういうものなのかもしれない)。

Episode2 澤先生と矢ヶ崎くん

一番わからなかったエピソード。澤は毎年生徒を送り出して(毎年3年生の担任なのか?)彼らとの関係を失うことに寂しさを感じているが、それに慣れ始めてもいる。ある年、卒業生の矢ヶ崎が卒業式のあとに澤に告白する。矢ヶ崎は言うだけ言って去り、2度と登場しない。

  • 澤は同僚の1人に告白された事実を話そうとしてやめる
    • わざわざ2人きりになってから話そうとしたのでこの同僚は澤と特別な関係なのかと思ったがそうではなかった
  • 澤は帰宅して卒業アルバムの矢ヶ崎の写真を見ながら幸福感に浸る
    • 自慰のメタファー?
    • 澤は矢ヶ崎と恋愛関係になりたいという意味かと思ったが特に何も行動してない
  • 1年後の卒業式の日に偶然姉と会い、姉とその同棲相手の家に行く
    • 放尿シーンの意図がわからない
    • 姉に「高校生大好き」と言うので、澤は矢ヶ崎個人ではなくて高校生というジャンルが好きらしい
    • 夢の中で姉が踊るという描写の意味がわからない
  • さらに1年後の卒業式の日、自ら謝恩会を提案する

澤が卒業する生徒と関係を築く一歩を踏み出したというストーリーは理解できるが、矢ヶ崎の告白やそれに対する澤の反応はなんだったんだろう…?

Episode3 しんちゃんと小夜子

これはそこそこわかった。

  • しんちゃんとみかちゃんに出されたさくらんぼ(チェリー)を小夜子が1つ食べるシーンがあったが、これは幼いカップルの純粋な関係を大人の小夜子が乱すことのメタファー
  • 夢精は2回するが自慰の描写はない。それは身体ばかりが成長するが精神や行動はそれに追いついてないからだ。みかちゃんの家で胸を見せられてもセックスはできない。
  • 佐々木との決闘展開はなんだったんだ?
    • 小夜子が去った後に一度視聴者の目をしんちゃんとみかちゃんの関係に向けさせたうえで、改めて「ほんとはさみしかったんだ」を言わせるためかな

Episode4 みかちゃんとしんちゃん

Episode3の2人の関係の深化を描いているのだろうが、展開もオチもぼんやりしていてよくわからなかった…

  • 小夜子がAVに出演している情報を漏らしたのはみかちゃんなのに、なんで他人がそれに言及すると「死んでよ」と言うのか
    • もちろんみかちゃんとしんちゃんのカップルに対する悪意のこもった発言ではあるのだが、それ以前に自分がしんちゃんの秘密を漏らした以上こうなるのはわかっていたことだし、漏らしたことがしんちゃんにバレるシーンなのにとっさにそれを気にしてないのは不思議だ
  • みかちゃんの兄が帰ってくる展開いる?
  • しんちゃんに見られてみかちゃんが上手く歌えなくなるシーンはよかった(歌声を聞かせずにモノローグを聞かせる演出も含めて)。呼吸は生命活動に不可欠なので意思ではコントロールしにくい。性欲が理性を圧倒するシーンとして説得力があった。
  • みかちゃんは自分からしんちゃんに性行為を求めておいて、いざ触られると小夜子のことを考えていると思いこんで怒るのか…
    • たぶん好きな人にはここが面白いところだと思うんだけど、僕には面倒くせえとしか思えなかった
      • 結局なんで問題が解決したのか。以下の複合的な要因かなと解釈している。
        1. 単純に一度性行為を試みて幻想が消えたから
        2. しんちゃんと思いをぶつけ合ったから(会話はあまり成立してないので要因としては小さそう)
        3. 小夜子が結婚すると聞いて、AV女優という得体のしれない職業への畏怖が解け、普通の人間に過ぎないと思えるようになった
  • ベストカップルに選出されたオチはなんだったんだろう
    • コンドームをもらって今度こそセックスしたという話?
    • 中学のベストカップルで景品がコンドーム、そんなことある?

小学5年生から中学2年生に成長したのにしんちゃんが女性声優のままだったのはかなりの手落ちだと思う。心身が成長して性行為ができるようになったというのがストーリー上重要な要素だったはずなのに声変わりしてないのはおかしい。同じ志村貴子原作アニメの『放浪息子』では子役を起用するほどこだわっていたはずなのに。

おわりに

話の筋になかなか入り込めなかったが、アニメとしての完成度は高かった。線が少なく彩度が低いキャラクターデザインと動きの少ない演出が作品世界の温度を下げ、そこで描かれている濃密な性を刺激的なものではなくむしろ「日々」の中にあるものとして描写している。芝居作画でいうとEpisode3の冒頭、食卓辺りまでがよかった。ここはEpisode1やEpisode2のような大人の鬱々とした日常とは違い、普通の家庭の食卓にAV女優が混ざっているという異化効果が大事なのでこれで正しい。

効果音の使い方が上手い。OPの音楽+雑踏の音+セリフの絶妙な音量バランスで既にこのアニメは音響で戦うという主張は感じた。2種類の足音をタイミングをずらして鳴らすことであやさんがえっちゃんの後ろを歩いていることを表現したり、ベッドに入っているみかちゃんの顔を映しながら布の擦れる音を鳴らすことで自慰を表現したりと、派手な演出を避けつつもアニメならでは音というチャンネルを使って原作の雰囲気をより豊かに再現している。

話がよくわからなくてもアニメの映像と音、そして志村貴子の爛れた雰囲気に包まれている体験は心地よかった。良くも悪くも雰囲気アニメだったと思う。

紹介

  • 繊細に描かれる人と人との繋がり「どうにかなる日々」感想
    • 公の空間と密室という観点が面白い。その観点で見ると3話でしんちゃんは夢精したパンツを浴室で洗っているのだが、父親にバレていて、浴室のドアが開け放たれており、玄関からも視界が通ってみかちゃんにもバレてしまうというのもすごい。父親の小夜子への態度を見ても、かなり性にオープンな家庭のようだ(だからこそ小夜子は逃げ込んできたのかもしれない)。そんな家庭に育つと中2でセックスできるんですね。

· 6 min read

※本記事内の画像・動画は以下の動画より研究のために引用したものであり、それらの権利は海野高校ていぼう部に帰属します。

イントロ

海、空、そして釣り竿。女の子が釣りをするアニメでありながら、女の子が映らないこの一瞬、図式的なレイアウトを挟んでからタイトルロゴが出るところに趣がある。

Bメロ

静かな港町の風景を3カット連続で映したあと唐突に陽渚がカメラに向かって微笑む。彼女は一体誰に向かって微笑んでいるのだろう。意表を突かれる演出だ。

1~3カット目は完全なFIXなので主観の存在を感じさせない記録のような映像になっているが、4カット目と5カット目にはわずかにハンディブレがついているので、確かに誰か撮影者が存在している。

風景を撮りに行ったカメラマンが現地の女子高生を見かけて咄嗟にいい絵だと思って手持ちカメラで撮影したら、タイミングよく女子高生がこちらに気づいて笑いかけてくれたのだろうか。無茶苦茶を言っているのはわかっているが、そういうストーリーの存在を思い描いてしまうほどにこのシークエンスは特異だと感じた。

サビ前

「遠くには↑ー」という音楽の高まりに合わせてカモメが飛び上がる。釣りのアニメなのにサビの直前でカモメや空を描くのは少し不思議に感じるが、釣りそれ自体よりも海や空(海を見れば空も目に入るので)といった自然の雄大さを見せたいという意図なのだろう。

それは直後のカットからもわかる。

描かれているのは海と空、水平線、陸、雲、船。そしてそれを見ているメインキャラクターたち。釣りはしていない。

サビ後半

ようやく釣りをしている、このOPで一番大事なカット。キャラクターたちは動かないし、魚も少し動いたあと止まってスライドになる。つまり、スライドを見せたいカットだ。

キャラクターは左へ、魚は上へ、互いに垂直にスライドする。陽渚の顔と魚が重なり、そしてまたずれる。

陸と海、違う世界で生きていた2つの生命が釣りを通して接触する。そこに生まれるドラマを描きたいということなのだろう。僕ならこのカットの後半(重なりが解消されるあたりから)は陽渚の顔と魚をアップにして魚をピンぼけにして2つの生命の交錯をもっとドラマティックに表現したくなってしまうが、そうしなかったのは落ち着いた雰囲気の映像で統一したかったのだろう。

魚の動きが止まってからは陽渚の服のなびきと水しぶきのきらめきにだけ動きがつけられているのも面白い。釣るという行為は陽渚と魚の2者だけの世界を形作る。友達と分かち合うものではない。

終わりに

海や自然の雄大さをじっくりと描くことを重視しつつも、Bメロの特異な演出が印象に残るOP。絵コンテは監督の大隈孝晴。これまでも多くの作品でOPを手がけているが、イメージBGを多用してキャラクターの魅力をたっぷり描いていくものが多かった。それと比べるとこの『放課後ていぼう日誌』のOPはほとんどが具体的・写実的な背景で動きが少ない。作風がかなり違う。

初監督ということで自分の作風を押し出しているのか、はたまた原作や楽曲の雰囲気に寄せているのかはわからない。でも僕はこういうのが好きだ。

· 12 min read

※本記事内の画像はアニメ『サザエさん』より研究のために引用したものであり、それらの権利は長谷川町子美術館に帰属します。

はじめに

カツオはうっかり自分のテストの低い点数を全校に放送してしまい落ち込んでいる。

波平の叱責

波平は「勉強して見返せ」「一度引き受けたこと(校内放送)を途中で投げ出すのは無責任だ」などと正論で叱責するが、カツオのやる気は戻らない。それは「バカバカしい、校内放送くらいでなんだ」というセリフに見られるように、カツオの苦しみに寄り添っていないからだ。カツオは今苦しいのだし、明日学校でからかわれることが怖いのだ。

このシーンで波平の顔はアップにならず、お決まりの食卓レイアウトだ。これは波平が家という共同体の中で、家長という立場で発言していることを意味している。

マスオとフネ

マスオは「気持ちはわかるけどねえ」とだけ言っている。カツオの気持ちはわかっているが、家長の波平の言うことには逆らえない立場が伺える。

フネは「頑張って最後までやり遂げなさい。カツオならできますよ」と言う。言葉は優しくなっているが、内容は波平と同じだ。

このシーンではフネの顔がアップになる。フネの顔を横から写すレイアウトで、フネは目線を下げている。あくまで目上の人間が目下の人間に言葉をかけているということだ。

サザエの寄り添い

一方でサザエは自分も校内放送で失敗したという経験を語る。カツオは自分の苦しみが理解されたように感じた。その結果、語る前は「他人事だと思って」と言っていたカツオが「それじゃあ僕と同じじゃない」と口にしている。

このシーンではサザエがカメラ(=カツオ)を正面から見つめる、『サザエさん』では珍しいレイアウトが使われている。サザエがカツオの苦しみをしっかり見つめて寄り添おうとしていることを表現している。

復活のカツオ

やる気を取り戻したカツオは校内放送でサザエの失敗を面白くおかしく語り成功する。このシーンもいろいろな読み方ができる(カツオがサザエへの感謝の気持ちを素直に表現しているとも取れるし、他人の衝撃的なエピソードで自分の失態を忘れさせる企みかもしれない)が、そちらの考察は他のサザエオタクに任せたい。

家庭内の多様性

このエピソードで効いたのは共感ベースのサザエの励ましだったが、波平の厳しい言葉も正論ではあり、そのような視点がカツオを成長させることもあるだろう。家庭内に年代も性格もバラバラの大人がたくさんいることがカツオの健全な成長を助けている。

家庭内の多様性がこのエピソードのテーマであることは明白で、今回取り上げたシーンより前の「なぜカツオが放送係に誘われたのか」というシーンでも家族それぞれから意見が出ていた。

  • そりゃあ決まってるよ(カツオ)
  • おしゃべりだからよ(ワカメ)
  • なるほど。話題に詰まってもカツオならなんとかしてくれると思ったんだな(波平)
  • 言わなくても良いことまでペラペラよくしゃべるものね(サザエ)
  • それだけ頼られているってことじゃないかい(フネ)
  • あぁん、僕もそう思うよ(マスオ)

カツオのトーク力という点は一貫しているが、ニュアンスには差がある。

スタッフ

開幕でカツオと中島が絡み、カツオが女の子にいいところを見せようとする展開だったので雪室先生の脚本と思ったのだが、予想に反して浪江先生だった。

演出は山﨑茂。彼が担当したエピソードは以前も取り上げている。本エピソードでは繊細なレイアウトの使い分けによってカツオに向けられる言葉の性質を表現して見せた。他に注目したいカットを2つ紹介する。

低いアングルからワカメを写して、ワカメがカツオの復活に安堵する感情にフォーカスしている。これがあることでワカメは単にカツオの行動を自宅に報告する伝書鳩ではなくなっている。

廊下から客間を貫通して茶の間まで見えるレイアウト。やや珍しい。無理やり意味を読み取るのならば、家族の象徴として茶の間のテーブルを見せたかったのかな(たぶんそこまでの意味はない)。

· 6 min read

※本記事内の画像・動画はアニメ『泣きたい私は猫をかぶる』より研究のために引用したものであり、それらの権利は「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会に帰属します。

アイス

ムゲは賢人のことを想いつつ、アイスを下品に口から出し入れしながらしゃぶる。

松の花

上記のアイスのシーンに合間に、たっぷりと花粉を蓄えたマツの生殖器官が映る。性の季節である。

ティッシュ

ティッシュは何らかの体液を拭き取るために使われる(『つぐもも』8話を参照のこと)。

本作におけるティッシュの出現頻度は高い。

笹木家リビング(2つある!)

家族が集まる部屋であるリビングに2つティッシュを配し、濃密な性の匂いを漂わせている。ムゲとは血のつながりのない薫が、洋治との性的な関係に基づいて家族として結び付けられていることを表現している。

ムゲの自室

勉強机ではなく、よりパーソナルな空間であるロフトベッドの下に置かれていることに注目。使用済みティッシュが大量に詰め込まれたゴミ箱も映っているところがポイント高い。

日之出家リビング

こんなところに置く?

賢人の自室

勉強机に置かれている。「自分が誰に支えられているのか。誰に元気づけられているのか」というセリフに合わせてティッシュが映るのが面白い。

なお、賢人の自室には地球儀・恐竜の模型・野球グローブ・PS3などが置かれている一方で、自分で作ったであろう陶器はない。賢人の個性があまり表れておらず、過剰に「普通の中学生」っぽさを表現しているように見える。どういう狙いだろうか?

陶芸

夜に一人で手を汚しながらなにかをいじっている。

電灯の紐

夜、自室で一人で寝転がっている少年。その上で揺れる電灯の紐は、自慰のメタファーである。 『月がきれい』でも電灯の紐は自慰のメタファーとして用いられた。

腹がチラ見えしていてエッチ。

終わりに

岡田麿里が性欲にフィーチャーしたアニメを得意としていることは有名だ。スタジオコロリドも『陽なたのアオシグレ』『台風のノルダ』『ペンギン・ハイウェイ』など、中学生以下の子供のストレートな性欲に優しい絵柄を組み合わせて臭みを消す作品を得意としている。岡田麿里とスタジオコロリドが組んだ『泣きたい私は猫をかぶる』はどういう作品になるのだろうと期待していた。

ストーリーについて

あまり面白くはなかった。総合的な評価はあでゆ氏のレビューに概ね賛同する。これは岡田麿里の癖だと思っているが、過剰に複雑な心情を描こうとしてモノローグに頼ってしまう欠点を感じた。作り手はストーリーを理解しすぎているがゆえに、ロジックが通ってさえいればどれだけ複雑でも視聴者はついてこられると思ってしまうのだろうか。最後にある敵を倒して終わるのだが、主人公たちの能力や信条と無関係な勝ち方をしてしまったので、その勝利にどのような意味があるのか、何を表現したかったのかがわからなかった。

ショタアニメとして

日之出賢人を演じる花江夏樹は14歳の少年を演じるプロである(『凪のあすから』『四月は君の嘘』『世界征服〜謀略のズヴィズダー〜』『とある飛空士への恋歌』『双星の陰陽師』『クジラの子らは砂上に歌う』『ラストピリオド -終わりなき螺旋の物語-』『星合の空』)。彼を起用して、岡田麿里でスタジオコロリドなので濃密なショタアニメになると期待していたのだが、そうでもなかった。賢人の物語ではなかった。

というわけで真面目な考察は断念し、断片的な描写を拾い集めて怪文書を書くことにした(もとよりこの方が性に合っている)。

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※本記事内の画像はアニメ『メジャーセカンド』第23話より研究のために引用したものであり、それらの権利はNHK・小学館集英社プロダクションに帰属します。

前回に引き続き『メジャーセカンド』第23話(絵コンテ・演出: 外山草)を見ていく。

光の粉

この話数ではキャラクターの強い気持ちの表現として光の粉が舞う演出が見られる。原作マンガには対応するものはない。

単なる感情の可視化に加えてこれを利用した様々なプラスアルファの工夫があるので紹介する

感情の共有

プレー中の選手はフィールドに散っているので同時に画面に収めるのが難しい

  • やってできないことはないが遠近法で片方は小さく描かざるを得ず、表情はよく見えない

そこで複数のキャラクターを別々のカットで写しつつ、同じ光の粉の効果を乗せることで、彼らが同じ感情を共有していることを表現する

  • 3塁の大吾が打席の光を「お前なら絶対打てる」と励ます

  • ホームの大吾、ライトの睦子、センターの光がこの回は1点も失点できないという決意を共有する

疎外

  • グラウンドを明るくぼかして光の粉を舞わせ、その手前にキャラクターを配置して逆光にする
    • 負傷した卜部とアンディの、勝利に貢献したいのにもう試合には加われない無力感・疎外感を表現している

中心

  • このカットは唯一、光の粉が光を中心に渦を巻くように流れている
    • これまでの全ての光の粉のカットに対してこのカットの特別さを際立たせている
    • 渦の中心に立つ光がグラウンド全体を支配していることを表現している

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※本記事内の画像は注記があるもの以外はアニメ『メジャーセカンド』第23話より研究のために引用したものであり、それらの権利はNHK・小学館集英社プロダクションに帰属します。

『メジャーセカンド』23話は東斗ボーイズとの決着の回。試合のクライマックスだ。

絵コンテ・演出は外山草(@swingzoo_Toyama)。

空と雲の変化

原作のマンガには空と雲に吹き出しだけが乗ったコマが時折挿入される。空は野球のグラウンドから見える普遍的な遠景であり、敢えて人物やアイテムを描かないことで台詞を強調している。

満田拓也(2017). MAJOR 2nd 9 小学館

アニメではそれらの空のカットにアニメならでは色や動きの変化が加えられ、さらなる意味を与えられている。

道塁は監督から敬遠を指示されるが納得せず、反論する。

  • カメラがPANする。

監督が敬遠を撤回する

  • 空のカットがもう一度挿入され、今度はFIXになっている。
    • 道塁の想いが監督に聞き入れられ、集中を取り戻したことが視覚的に表現されている。

アンディの負傷で永井が代打

  • 雲の流れが速くなっている
    • 負傷というアクシデントによって試合が予想できない展開を見せ始めたことの表現

最終回裏で意気込む卜部

  • 雲が多く厚く、暗くなっている
    • 未来の不幸な展開を予期させている
    • 原作では「なんとなく良くないことが起ころうとしている…」という大吾のモノローグがある
      • 卜部の突き指による降板
      • 光の脳震盪
      • チームの敗北

突き指で追い詰められる卜部

  • キャラクターと背景のズーム速度をズラすことで背景の暗い雲がこちらに迫ってくるような画面にしている
    • 上記の不幸な予感が実現しつつあることの表現

吾郎と光が衝突しフライを取り損ねて負ける

  • 暗い雲+流れが速い

光が倒れて起き上がらない

  • 回転カメラワーク+露出が高め
    • 光の負傷とチームの敗北に唐突に直面して大吾が打ちのめされている
    • 貧血で平衡感覚が失われ視界が白くなるようなイメージ?