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· 9 min read

本記事内の画像はすべて上記動画から研究のために引用したものであり、その権利は堀越耕平/集英社・僕のヒーローアカデミア製作委員会・MBSに帰属します。

サビ直前のオールマイトのポーズ連続、そしてサビ冒頭の回り込みまで

①サビ前
ここで目に残る絵は4枚。ただしそれぞれの間に動きを表現する絵が挿入されている。

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上から順に①~⑦とする。
奇数番号の絵はポーズ、その名のとおりオールマイトが止まっている(厳密には止め絵ではないが)ときの絵。 
②と④はポーズとポーズの間。オールマイトが素早く動いていることを表すための絵。
アップしちゃったけど⑥はちょっと違うかな…

 奇数番号だけを抜き出した、ポーズからポーズに跳躍するような作画のスタイルもある。人間の目の高度なフレーム補完機能をもってすれば、それでも一応動いているように認識はできるだろう。しかしこのカットでは偶数番号の絵によってオールマイトの動きの情報が与えられている。
その意図はオールマイトの動きに重さを与えることだ。

 ポーズとポーズの間に置かれる絵の役割は、その時間にその場所に物体があることを伝えることである。さらにアニメでは激しいブレ線やブラーによって、一枚の絵に速度の情報まで持たせることができる(つまり、ブレ線やブラーの程度を変えるだけでこのカットの動きの印象は容易に変化してしまうと思う)。
このカットでは偶数番号のような絵を置くことでオールマイトの動きの速さを推測に任せることなく説明している。それによって彼の動きを非現実的・アニメ的なものから現実的な重みを伴うものに寄せているのだと考える。

 
また、このカットでは強調された遠近法によってオールマイトの体、特に突き出された拳が大きく描かれる。これはオールマイトの拳の力強さを強調するとともに、そこに注意(あるいは視線)を集める。一方このカットでは背景のスライドによってカメラワークを表現している。周辺視野は姿勢制御、つまり自分の体の向きの認識という役割を果たすと言われており、拳を注視させることで背景を周辺視野に投影するこのレイアウトは、このカットの激しいカメラワークをよく活かしている。

 ちなみに私はアニメOPで最も重要なのは曲の緊張感が最も高まるサビの直前だと考えており、そこにこのような力の入ったカットを入れてきたのは良い構成だと思う。

②サビ
ここでは 2種類の回り込みについて考えたい。サビでは土煙の中から黒い怪人(?)が姿を現し、オールマイトがその怪人と拳を交わす様子が回り込みを交えて描かれている。
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最初の3枚は最初の3発であり、最後の1枚はその後の乱打の回り込みの一部。
最初の3発とその後の乱打で回り込みがの種類が違っていて面白いという話。

 最初の3発では1発殴るごとに素早くカメラが回転する。また、カメラはオールマイトを下から見上げている。その後の乱打ではゆっくりと滑らかにカメラが回転し、カメラはほぼ水平から2人を捉える。
この表現の違いを、前半は主観的であり、後半が客観的であると表現したい。 

 アオリ(下から見上げるカメラワーク)は被写体の力強さを表現するとされている。また、1発ごとのパンチに合わせて素早く回転してオールマイトのかっこいいポーズを的確にとらえるカメラは、まさにオールマイトを主人公として映し出そうとするカメラマンの意思が感じられる。

 それに比べて後半はオールマイトの一方的な攻撃ではなく激しい拳戟となる。さらに左上がりの斜めのレイアウトに怪人の体躯も合わさって、互角の殴り合いであることが視覚的に表現される。一定速度で離れながら回り込んで2人を捉えるカメラワークも前半に比べると客観性が感じられる(上手下手を気にする人ならば、それでもオールマイトが上手に配置されていることに意味を見出すかもしれない)。

 文章に表してみると後半はオールマイトのカッコよさを表現するのに不適切のような気がするが、そんな印象は受けない。それは客観的だろうとオールマイトは十分カッコいいからだ。
ムキムキのヒーローが体躯で勝る怪人と激しい砂煙を上げながら殴り合うという状況はそれ自体がカッコいい。だから、それを客観的に捉えても、いや、だからこそ、主観的な捉え方とは違う新たなカッコよさが生まれるのだろう。 

2019年2月3日追記 2年10ヶ月の時を経て作画研究の大家が言及していたので

1枚目のパンチが入ったカット→2枚目の拳を引くカットのオバケ、拳を引く軌道上でなくて回り込み含めた空間の軌道上にオバケを描写してるのめっちゃ面白い、、、
描写されていない間の回り込みの動きの補完にもなっていて良い、、、 他にオバケの先行・残像、前述の腕の可動域外にオバケが他にも等、、 pic.twitter.com/cFYvjntSHe

— しんざんもの (@ky_shinzanmono) February 3, 2019

· 5 min read

最悪ですね。あまりにもひどい。
冷静に文章を練る気力すら奪われるほどだったので思いつくまま書いていきます。

  • キャラ作画。せめて目は左右対称に描けよ。
  • 太一の「戦うことで周りに被害を出す」という葛藤がそもそも意味不明。戦わなければもっと被害が出るのは自明なのに何を悩んでいるのか本当に意味が分からない。
  • 子供たちはデジモンと会いたいのかそうでもないのか、そもそも会えると思っていたのかあきらめているのか、デジモンの新作として非常に重要なポイントがはっきりしていない
  • 戦闘の作画も伊藤浩二のタイミング芸以外見どころなし。1999年以下のところまである。
  • 進化バンクにセンスのかけらもない。強いて言えば成熟期のCGの出来がいいことくらい。でもそこでしか出てこない。
  • そもそも戦闘のカット割りが見にくい
  • 公式同人としか形容のしようがないどうでもいい小ネタの多用(ウーロン茶、光ミミ、KODなど)
  • 演出もめちゃくちゃ。見せるべきところを見せない、大事なシーンでダサいレイアウト、無駄にセリフを削る。その極致は再会シーンの流れ作業感
  • というより再会シーンは脚本レベルで全く盛り上げようという気が感じられない
  • 音楽も全編通して安っぽい。brave heartのインストアレンジなんてよく言われる「ジャスコBGM」以下。弱い音楽をダメなタイミングで使う上で、その音楽に頼った盛り上げ方をするからどうしようもない。
  • brave heart ~tri.Version~はドラムの入れ方を変えたせいでスピード感が激減してる
  • そもそもデジモンを研究する秘密政府機関とか、黒服の集団とか、全く新鮮味のない設定
  • 浪川のあの人が教師である理由もほとんどない。絡ませやすいという書き手のメリットしかない
  • あんまり言いたくはないけどデジモンたちの声も結構老いを感じるなあ…

デジモンファンが見たいものを作ろう、と意識するあまり自分たちが見せたいものを全然書けてなくて、結果として変なポイントばかり押さえた公式同人になってしまっている(構成は柿原氏だったが脚本は4人いた)。演出もなんだか投げやりというか、ここぞというところが感じられないし、作画もかなりの低レベル。デジモンにとって重要な挿入歌も新味がない。水戸黄門の印籠に匹敵する進化バンクもフルCGなのに動きがショボすぎる。有澤さんのBGMもなんか変なアレンジされて、極めて雑な使われ方をしている(そもそも有澤さんの曲のアレンジが使われているのにクレジットされてないのはどうなんでしょう)。

私に言わせればこれはデジモンファンこそキレなければいけない作品ですよ。

· 3 min read

前半はストレートに楽しめたものの、後半に入ってから明らかなストーリーの弱さを感じてしまった。
そのせいで視聴後感はあまりよくなく、6か月間期待した細田作品がこれか、と落ち込んでいた。
しかしいろいろな点を整理し、他の人の感想を読んだり聞いたりするなかでだんだんと問題点が明確になり始め、よかったところ、よくなかったところを割とはっきりと意識できるようになった結果、総合点としては悪くない作品だったと思うようになった。

これから視聴するという方は、以下の点に気を配りながら見ると面白いと思う。
・複数現れる親子(父子)の対比
・話が広がってきても、あくまで重要なのは熊徹と九太の関係である
・話の方向性が怪しいと思った時には、無理に理解しようとせず映像と音楽に身を委ねること

3つ目は一度こうしてしまうと最後まで流れに戻れない可能性もありますが…
この作品はそもそもエンターテインメント性を重視しているので、10歳児くらいの理解力でも十分楽しめるように作られています。だから伏線の見落としや出来事の理解はほとんど心配ないでしょう。

· 13 min read

コミカライズ・小説等は読まず、公式の予告動画は観ていきました。

ほとんどの展開や伏線は把握したと自負していますが、1回見ただけの感想なので理解の不足があるかもしれません。
例によって鮮度重視の文章なので完全に言いたいことを表現できているわけではないですが、ご了承ください。 

感想の変遷としては

視聴中(前半):超楽しい。ワクワクする

視聴中(後半):なんかごちゃごちゃして着地点が見えない

視聴直後:なんか納得できなかったな

視聴後数時間:でも作品に込められたメッセージは何となくわかってきたぞ

視聴後12時間:数点の重大な問題を除けばかなりの良作だったはずでは

という感じ

さて、この作品の問題点としては、後半になって要素が増え話が拡散してしまったことが挙げられる。

特に重大なものを挙げる。

①成長した九太が熊徹とたもとを分かつ描写が弱い。

17歳になった九太は熊徹とのいさかいの末に人間界に戻る。これが成長に伴う親子関係の変化なら納得できるが、二人の言い争いは8年前から変化がないように見える。どうせこの二人ならそのうち仲直りするだろうと思えてしまう程度の喧嘩でしかないのだ。結果として九太と熊徹の別れを、偶然人間世界への道が開けたという外部の出来事に頼って描いてしまっている。もちろん子が成長によって見聞を広げ、それによって自然と親から離れていくことをアニメ的に表現したという事もできるが、もしそうなら九太の見聞の広がりのきっかけとして「いきなり『白鯨』を読み始める」というわけのわからないエピソードを使うのは悪手だったろう。

これでは変化を乗り越えた二人が成熟した(より対等に近い)親子関係を結び直す象徴である「宗師決定戦でのセコンド」が活きない。二人が何を失って取り戻したのかが十分に描かれていないのだ。その象徴として、一度渋天街に戻り猪王山宅で二郎丸と会話する九太が「熊徹とはなんとなく気まずい(記憶を頼りに書いてますが)」という言葉を使っていることだろう。「なんとなく気まずい」程度のいさかいでは、それが氷解したところで得られるカタルシスも不十分だ。

そしてそのまま熊徹が自己犠牲によって(親は死んでも子の心に生き続けるというメッセージをストレートに示した)九太と一体化するシーンも、何を経てここに至ったのかということが今一つ明確ではない。これもまた、九太が一郎彦と戦うというシチュエーションが九太の成長によって発生する問題ではなく、外部から与えられた問題だからだろう。九太の力が不十分だから助けてやらねばならないという展開は悪くはない。しかしその理由が「闇に取りつかれた一郎彦と戦う」では突飛すぎる。敵が強大過ぎるのだ。九太の力が不十分云々ではなく、敵が未知かつ強大過ぎる。これでは九太が戦わねばならない理由がわからない(熊徹の敵討ちというには九太に殺意がない)し、熊徹が力を貸せばどうこうなる問題かどうかも現実的にイメージできない。

結果として後半から熊徹と九太の父子関係の転換が物語上の大きな出来事によって与えられるので、見ていてよくわからないのだ。

外部から機会を与えられて成長するばかりでは、父子の成長の物語としての説得力は足りない。

②一郎彦の「闇」

まず第一に「闇」って何なんだということ。単純に「悩み」だとか「くじけそうになる心」を表現したかったのだろうか。それにしては描写が暗すぎるし、「闇」という言葉では漠然としすぎていて表現できていない。さらに、あれほど人間らしい感情を見せるバケモノ達には「闇」が宿ることはないという。これもまた納得できない。「闇」が自然な感情の一面であるのなら、それがバケモノ達に宿らないのはおかしいと思える世界観だった。逆に「闇」がなにか特殊な現象であるのなら、それはもっときちんと説明すべきだった。胸の穴のイメージ映像によって繰り返し表現された「闇」だが、納得できなかった。

加えて、一郎彦というキャラクター自体がそれほど詳しく描写されていたわけではなく、ラスボスを務める資格がないと言わざるを得ない。多忙な猪王山がなかなか子の相手をしてやれないことが(熊徹との対比によって)その子の成長にも悪影響を与えるというのなら合理的なつながりだが、結局一郎彦を闇に溺れさせる原因は人間という出自(=設定)であり、そこに至る父子関係は軽んじられている。極端に言えば、猪王山が最初に言った「人間の子など連れてくるべきではない」という言葉が最後まで生きてしまったのだ。本来は「人間だろうとバケモノだろうと父がきちんと育てれば立派に育つ」と解決されるべき問題だろう。

③さらに細かいことを言えば

・楓の立ち位置

九太が成長したことを示す手っ取り早くて効果的な手段は異性関係だったろう。しかし二人はほとんどそういうことを匂わせなかった。このあたり細田監督らしいという気もするが、楓が勉強を教えるというひねった展開にはやはり違和感があった。これは個々のキャラクターがそういう行動をとるのは「らしくない」という意味と、視聴者目線で「異世界ファンタジーの直後に大学受験の話は唐突」という二つの違和感を含む。

・実父の立ち位置

無論九太が実父と熊徹、二人の父親(=二つの世界)ともうまく関係を作れないなかで孤立を深めて闇を生むという展開は必要だった。

しかし九太と実父との関係にはひねりが無さすぎる。ストーリー上のリアリティの話ではなく、「ただ優しく待ち構えている父親にうまく甘えられない」という問題は、九太と熊徹の関係と比較してあまりにも甘く、つまらない。簡単に解決でき過ぎるし、実際そうだった。

とここまで厳しい意見を述べてきたが、後半に比べて前半はよかった。何より九太がかわいらしいし、九太が熊徹と徐々に距離を縮めていくところはほほえましかった。

というか前半部分はそのことが揺るがぬ目標としてあったから、まとまりがあった。

最初の熊徹vs猪王山は迫力があったし、ひとりぼっちの九太が同じくひとりぼっちの熊徹に親近感を感じるというのも納得できた。

脇を固める百秋坊・多々良もいいキャラだった。演技もデザインも素晴らしかった。

全体としてバケモノ達の表情は繊細に描かれ、気に入った。

ただ残念なのは、高木正勝(と足本憲治)による音楽が前作ほどのとがった魅力を持たなかったことだ。

前作の曲は明らかに「劇伴らしくない」音楽だからこそ、主観的な(『おおかみこども』は雪の回想)物語をよく支えていた。

それに比べて今作はもう少し客観的な描写の仕方をしており、それに音楽を合わせたのかもしれないが、前作ほどの独創性は感じなかった。

· 12 min read

『想いよ届け! プリンセスVSプリンセス!』
脚本:成田良美
演出:三塚雅人
作画監督:稲上晃

原画:板岡錦ほか

これまでの記事では 出来がいいと思った話数を総合的に考察したが、今回は特定のシーンの話である。
それは、Bパートのキュアフローラとトワイライトの戦闘シーンだ。ひさびさにテレビアニメで興奮した。
ここではアニメが情報伝達に使うことができる複数のチャンネルが様々に絡み合って独自の空気を作っていたと思う。

<音>
まず、今回取り上げるシーンの台詞を書き出してみる。 

希望はある

今、わたしの目の前に!

「フン、ならば、おまえが希望とよぶ者の手で朽ち果てよ」

ヴァイオリンは心を閉ざして弾くもの、あなたはそう言ったよね。

でもわたし、あなたの演奏にすごく感動した

あなたみたいに弾けるようになりたいって思った

それはきっと、あなたの音色は心を閉ざしても抑えきれない夢

それに、遠く離れたカナタへの思いであふれていたから

「言ったはずだ、王女の心は消えうせた」

心のない人に、あんな素敵な演奏できないよ!

あなたのこころは無理やり閉ざされているだけ

あなたの夢も、カナタへの思いも、その中で生きてる!

「あなた」という言葉からわかるように、キュアフローラはトワイライトに語りかけている

つまりこの一連の台詞は、一人の登場人物がもう一人の登場人物に向けて語ったものである。

しかし私はそれだけとは感じられなかった。キュアフローラの口を借りて、何かもっと大きな存在が語っているように感じられた。

(大きな存在…脚本家とか演出家とかそういうメタなレベルではなく、あくまで作中の存在を想定している)

その理由は台詞・BGM・効果音の音量の関係にある。

現実の一場面、もしくはドキュメンタリー作品などを想像してみよう。

そこにBGMは存在しない。つまり、BGMの存在は作品の非現実性を高める(BGMの不在が現実性を高めると言ったほうが正確かもしれないが)

そして効果音と台詞(ナレーションではない)は同じ時空間で発生しているため、音量レベル、というか音の距離は同じはずである。

加えて両者ともに現実の出来事に根差しているのだから、それらは時間的に相互干渉する。

難しい言い方になるが、例えばパンチを繰り出す時、「フンッ」という掛け声と打撃音は連動しているということだ。

現実的な音響をイメージしたところで、今回のシークエンスではどうなっていたのかみてみよう。

上記のセリフの開始に合わせてBGMが入る。1話の見せ場でも使われていた曲である。

頂点に達するのは2人の技が激突する瞬間である。

BGMが使われていること、そして曲の頂点が映像の頂点とシンクロしているのは、きわめて作為的・非現実的な印象を与える。

効果音と台詞はどうだろうか。

そう聞こえたというだけなので説得力を欠くかもしれないが、打撃などの効果音に比べて台詞の音量が大きい気がする。

特にトワイライトが上昇しながら青い炎を凝縮させるあたり(台詞5行目)からが顕著である。
加えて、キュアフローラのセリフは長回しのカットにおいて肉弾戦の状況と関係なく発せられている。 

ではこれらの表現はいったい何を表現しているのか。

おそらくそれは、台詞が「その時その場所にいるその人物の言葉」以上の意味を持って「視聴者に」語りかけているということである。ナレーションをイメージしてほしい。 

また、ここまで全く触れていなかったが、殴り合いの相手であるトワイライトが一言も発しないことも印象に影響しているだろう。

<映像>

映像面でも上記の印象をサポートするような工夫が見られた。

それが「口パク隠し」である。

キュアフローラの口パクが映るカットがあれば、それはキュアフローラの「その時その場所」性を強めると言える。

なぜなら画面の中のキャラクターは「その時その場所」に存在することが明らかであり、口パクは聴こえてくる台詞と画面の中のキャラクターを結びつける役割を持つからだ。

そこで、キュアフローラの口パクが明確に映されている箇所を太字にしてみた。

長回しの格闘シーンは、よほど注目していない限り初見ではっきりと視認することは困難だと考え除外した。

希望はある

今、わたしの目の前に!

「フン、ならば、おまえが希望とよぶ者の手で朽ち果てよ」

ヴァイオリンは心を閉ざして弾くもの、あなたはそう言ったよね。

でもわたし、あなたの演奏にすごく感動した

あなたみたいに弾けるようになりたいって思った

それはきっと、あなたの音色は心を閉ざしても抑えきれない夢

それに、遠く離れたカナタへの思いであふれていたから

「言ったはずだ、王女の心は消えうせた」

心のない人に、あんな素敵な演奏できないよ!

あなたのこころは無理やり閉ざされているだけ

あなたの夢も、カナタへの思いも、その中で生きてる!

これが多いというべきか少ないというべきかは判断しかねるが、回想のカットや顔アップでも口を映さないカットが複数あり、意図的に隠していたと考えるのが自然だろう。

つまり、口パクを意図的に隠すカット割りがキュアフローラのセリフを「その時その場所」から切り離すはたらきをした。

もうひとつ、キュアフローラの表情や動きもどこか不思議な印象を与える。

キュアフローラは激しい肉弾戦のさなかでも笑顔のままである。

加えて、その動きもどこか優雅なものを感じさせる。

具体的には「あなたみたいに弾けるようになりたいって思った」のところではクルリとその場で回転する動きが入った。

長回しの肉弾戦のカットもなんとなく優雅な動きに感じられ、コマ送りしてみるとバレエを思わせる姿勢や動きが随所に取り入れられており、印象が裏付けられた。おまけに最後には敵に背を向けて祈るポーズまでしている。

これらの描写は、キュアフローラが「その時その場所」の戦いというシチュエーションに拘束されていないということを暗示する。

むしろ、キュアフローラの内面からあふれ出る慈しみの感情が感じられる。

<総括>

上記のように、BGMと状況のシンクロ、台詞の音量の大きさ、一人称的な語り、口パク隠し、シチュエーションに縛られない所作などの様々な工夫がこのシーンには用いられていた。重要なのはそれが音と映像という2つのチャンネルをフルに活用し、総合的なメッセージを表現していたことである。

ここで冒頭の印象に戻ると、キュアフローラが物語世界の「その時その場所」を超えて語りかけてくるという印象が、何か大きな存在がキャラクターの口を借りて語っているという印象につながったのだろう。

あるいは、キュアフローラが「その時その場所」を超えた大きな存在になっていると言ってもいいかもしれない。

また言い方を変えれば、作品そのものが三人称的な事実の描写から、一人称的で内面的な語りに一時的に変質したというべきか。

感じたことを直接言い表すのは難しいので、婉曲的な表現の積み重ねになってしまうのがもどかしいのだが…

このような気合の入った演出が時折現れると嬉しいものだ。

· 14 min read

『ミアレジム戦! サトシVSシトロン!!』
脚本:冨岡淳広
絵コンテ:金崎貴臣
演出:関野昌弘
総作画監督:広岡トシヒト
作画監督:西谷泰史、松永香苗
作画監督補佐:一石小百合、中矢利子

原画:黒石崇裕、大橋藍人、杉江敏治、佐藤利幸、西谷泰史ほか

・鮮度を大事に急いで書いたので、咀嚼が不十分あるいは感情的な記述があるかもしれませんがご容赦ください

<脚本>

・サトシの発想、「どうだろうね」
サトシはヌメルゴンにあまごいを使わせた。結果としてこれがエレキフィールドとヌメルゴンの麻痺を解除し、反撃の糸口となったのは脚本の妙だと思うが、さらに素敵だったのはサトシがそれを計算して指示したのではないところだ(まずはフィールドを味方にすると言っているので、その点はある程度計算は合ったのかもしれないが)。「これでお前の好きなフィールドになった!」というのが直後のサトシの台詞である。つまりサトシは戦いのクライマックスにおいてヌメラとの出会いを回想し、そこから着想を得てヌメルゴンが戦いやすくなるようにあまごいを使わせたのだ。やや駆け足ではあったものの、サトシとヌメルゴンが築いてきた絆が勝利を手繰り寄せたと言っていいと思う。それにしても、リモーネの「どうだろうね」が何ともいい味を出しているではないか。

・「サトシが勝った」
なんだかんだでサトシの応援になっちゃってませんか?まあいいけど。

・一緒は当たり前
今後のメンバーどうなるんでしょ。ショータ君が次のライバルなのか?しかも予告にはアランもいるし!?

<演出>

・人間の描写
子供がモンスターを使役して戦わせる作品は多いが、子供が棒立ちで何もしないことが絵的にも物語的にも問題になる。例えばデジモンシリーズでは、子供の精神的成長によってデジモンが進化を獲得するという設定によってこれらの問題を解決しようとした。加えて『デジモンテイマーズ』ではカードスラッシュによって子供が戦いに介入するシステムが考案され(小中千昭氏の個人サイト http://www.konaka.com/alice6/tamers/plan.html より)、『デジモンフロンティア』ではついに子供たち自らがデジモンになって戦うという設定が導入された。ポケモンシリーズではゲームとのすり合わせ上大胆な設定は無いが、例えばポケモンを捕まえる時に力でねじ伏せるだけでなく心を通わせる描写を入れたり、戦闘で傷ついてたポケモンに必ず一声かけてからボールにしまうなど、ポケモンとトレーナーの絆は重視しているようだ。最近ではメガ進化という要素も出てきており、今後のアニメポケモンにおけるトレーナーの役割の変化に注目したい。

・ 再現、目
サトシとシトロンが1話のバトルを再現しているところ、二人(とポケモンたち)の目が映されることが多く、互いにあの時の再現をしていることを認識しているように見える。戦いの中で通じ合うものがあるというのは、燃える。ましてこれまで長く苦楽を共にしてきた二人であればその感動はひとしおだ。

・水滴
あまごいの最初の一滴を純粋に嬉しそうな顔で受け止めるヌメルゴンのカットは、ある意味この回で最もエモーショナルな箇所と言ってもいいだろう。急激にBGMを止めるものだからここから「ゲッタバンバン」が流れ出すのかと思ったが、そうではなかった。

<作画>

・西谷泰史さん

にしやん@nishiyan0120

予告がちょっと話題になってるようなので…
来週のポケモンxyは自分はアクションパート全部、フィールド内メインで作画監督をしております。ポケモン達が大ハッスルしてるのでよろしくです。

2015/04/02 23:52:58

・大橋藍人さん

ふたつき@大橋藍人@aoshi11

(・ω・)さて、終わったかな
今回のアニポケはAパートのりゅうのはどう~Bパートのエレザードの3Dの回り込み、間少し開けてサトシのボール投げ~ルチャがからてチョップ当てて決めポーズ取るトコまででした
途中の観客席とからてチョップの指示出しは別の方です

2015/04/09 19:41:42

大橋さんは最近注目しているアニメーターの一人。情報量の操作がとてもうまいという印象がある。主にエフェクトでは非常に簡素かつ幾何学的な線を用いるが、速い動きではタッチやオバケ、影・ハイライトで情報量をぐんと増やしたり、まだうまく言葉にできる段階ではないが、そういう調整によって 目に残る絵の印象を操作している印象がある。それと大きな動きの前のタメの絵の選択が非常にうまく、バウンドするような自然なテンポ感のある動きを作れる。今回で言えば12分24秒当たりのエレザードの走りだしの箇所にその特徴が顕著。また、シトロンを上から見下ろすカットでは頭の大きさがわずかに強調され、カメラの存在とともに臨場感を高めている。

・CG背動
ポケモンシリーズの映像面において非常に特徴的なのは3DCGによる背景動画(以下CG背動)である。キャラクターが戦っている場所をCGでモデリングすることによってカメラワークの自由度を飛躍的に高めている。アニメーターが先にラフを出しているのか、それともCG背景に合わせてアニメーターが描いているのか、それは視聴者の立場から知ることはできないが、どちらにせよ驚くほどのマッチングを見せている。これまでであれば技のバンクの背景は抽象的なもの(いわゆる謎空間)だったが、CG背動ならカメラワークの情報を乗せれば簡単に背景と合成できる。これによってXYから謎空間を利用したバンクは無くなったように思う。今回も非常に多くの箇所で当たり前のようにCG背動が活用されている。すごい。

 
・OPマイナーチェンジの予感
OPに仕込まれていた多くの要素が67話ですでに回収されてしまった。具体的には
①サビ直前、ジムリーダー3人+シトロンのうちフクジとシトロン
②サビのサトシのポケモンのうち、ヌメールはすでにヌメルゴンになった
③ヌメラが進化していくカットも同様に、すでにヌメルゴンになってしまった
④サトシとシトロンの対戦
これらの要素はこのままOPに残しておくのはおかしい。よってそろそろOP映像のマイナーチェンジが来るのではないかと思う。同様に、EDについてもフォッコが未進化のまま残っているが、これも変わるだろう。というか次回から変わるはず。

・破片の輪郭
これは撮影レベルの問題なのかと思うが、えぐれた地面や飛び散る破片の輪郭の発色がきれいなので、情報量が多く感じられる。

・頬タッチの入れ方
頬が赤く染まっていることを漫画的に表現する赤線のタッチのコトを言いたい。頬タッチがごく小さく、控えめに用いられているのがこの話数の特徴。

・崩しユリーカ
数回見られた。かわいい。

・エレキフィールドの描線
レントラーがエレキフィールドを発動した時のほとばしる描線は迫力十分。整ったアニメの線にはない魅力が良く表現されていたと思う。

・細かい煙
今回、煙細かいよね?ポケモンシリーズは地味に煙や爆発の作画にこだわってる。もしかしたらバンクもあるかも。

<声・音>

・ 「アドリブです」
計算されたバトルもシトロンの持ち味ではあるが、それをかなぐり捨てて全力で目の前の相手と向かい合うと宣言するこのセリフも素晴らしい。その後の「もうすぐ終わってしまう」は胸にこみ上げてくるものがありながらも全力で目の前の戦いを楽しんでいることを感じさせる素晴らしい演技だった。そこに重なるシトロンの目がうるんでいるのも良い。「楽しい時間の終わりを予期した寂しさ」という複雑な感情を絵と声の両面から見事に表現した。

・ゲッタバンバン
いまだにフルで聞いたことが無いのだが、イントロはハ長調でかつカノン進行。冒頭が主和音なのでいきなり開放的で疾走感がある。すでに戦いの高揚感の中にいることの表現として合っているがやや軽いか。イントロからAメロに行くところ、急激にロ長調に変化するのがすごいし、これをまたハ長調に引き上げるサビ直前の流れも不思議。しかしOP曲が挿入歌として使われるという盛り上がりに比べて絵的に地味だった感は否めない。もちろんここでサトシとシトロンの心中をモノローグで語らせるのは重要だっただろうが…。いろいろな要素を統合して、総合的に良いものを作るというのはとても難しいことだ。

· 5 min read

『玄界の雛鳥』
脚本:高橋ナツコ
演出:土田豊
総作画監督:海谷敏久
作画監督:井上栄作

原画:鹿間貴裕、冨田與四一、東出太、杉江敏治ほか

<演出>

・木虎と修が走りながらレプリカと会話するシーンは、ところどころ段差を飛び越える動きを挟むことで冗長さをなくし、目的地へ急いでいる状況を説明している。少しの工夫で大きな効果を生むスマートな演出だと感じた。

<作画>

・来馬の銃撃を壁走りでかわすラービットのカット。背景動画からのカメラワークがうまい。うーん、ここが鹿間さん?申し訳ないが、鹿間さんは本気を出す時とそうでないときの差が大きいのではないかと思っている。

・C級や市民を襲うラービットに対し、間一髪で駆けつけ得意の足スコーピオンを見舞う木虎。空中で四肢を延ばして回転する動きは東映だと黒柳賢治さんによくある気がするが、今回は来てなかったので別の誰か。

・修がレイガストでモールモッドの攻撃を受け続けるところ。単純なリピートだがエフェクトがうまい。修がイメージした遊真とモールモッドの戦い(3話)はおそらく東出さんの作画だったので、安易に考えれば今回の修VSモールモッドも東出さん…かもね。

・木虎のモノローグ終了後、スコーピオンを生成するカットからは冨田さんのパートでしょう。シーンのつながりを考えればそれより前から始まっているかもしれない。特徴は光と影の入れ方とフェティッシュで肉感的な美少女作画。新3バカリーダーの髪がやたらとテカテカしてるのが特徴的。地面に叩きつけられた後、至近距離での砲撃を覚悟して「やられる…?」と言うカットは特に冨田さんらしさが出ている。「絶対にやるのよ」のカットもいい。銃型トリガーの引き金を引くところも、単なる指をここまでこだわりを持って描くのかと驚くような美しさ。ラービット撃破の後は冨田さんの特徴が見られなくなるけど、震える千佳の足のむっちりとした感じは再び冨田さんの波動を感じる。美少女担当?

<声・音>

・新3バカのキャラ付けは声がつくと一層面白い。避難所の案内板を持って立っているという仕事は、そりゃあ彼らにとっては不満だろうなあと思える。それで缶をスタイリッシュに捨てようとしても入らず、しゃがんだままゴミ箱にすり寄る動きも面白い。

・やしゃまるシリーズについて嬉々として語る宇佐美のシーンは声優さんの演技で原作よりずいぶん面白くなった。

・古川登志夫さんの声が相変わらず若くてよく合ってる。逆にハイレインの声はイメージより若くて少し違和感。

・新主題歌が今回はEDとしてお目見え。映像は総集編。割と静かな曲だけど、後期OPというのは意外とこういう曲でも合うものだし、映像とのマッチング次第なので完成を楽しみに待ちたい。

· One min read

フツーにブログです。
ツイッター(@min_nan_a_si)よりまとまった内容が書けることと、あとから自分が書いたことを見つけやすいのが理由です。 
なるべく更新します。